ring | ナノ



Ring

※数年後同棲音トキ




「ない…ない、ない、ない!」

 らしくない足音をどたどたと家でまき散らしているトキヤの顔は、まさにこの世の終わりそのものだった。
「トキヤ、どうしたの?」
「ないんです!あれが…ない!」
 いつも後片付けはちゃんとしなさいとうるさいトキヤが、タンスは開けっ放し、扉は開きっぱなし、ゴミ箱を逆さにしてはそのまま、クッションは投げて、そのまま。あまりにも血相を変えたトキヤが少し怖くて、おそるおそる残骸たちを後片付けしておいた。食器も全部洗っておいた。
「ねえ、何がないの?」
「……っ」
 きゅっと唇を噛み締めて、トキヤは泣きそうな顔をしている。そんなに大切なものをなくしてしまったんだろうか。心配になって、俺も一緒に探すよと言うと、
「あなたには……そんなことさせられないです。私、本当に最低で……」
 現金?通帳?カード?さっぱりわからない。不安になって、いつも通帳やカードをいれている引出しをあけてみると、そこには通常通りきちっとしまわれていた。
「どうしたの?ねえ、怒らないから言ってみて」
 トキヤの冷たい手を握ってみると、少しかさついているように思えた。トキヤは涙をこらえるような表情をしていて、今にも泣きそうだ。
「ね、教えてくれないと俺も一緒に探せないよ。一人より二人のほうがすぐ見つかるじゃん。俺もこの家の住人だもん。役にたつと思うよ」
 ねえ?と、トキヤの頬をむにっと軽くつねると、トキヤが俺の顔を見つめた。そして、ボロリと大きな粒の涙をこぼしたのだ。
「何をなくしちゃったの?トキヤいつもきっちりしてるのにめずらしいじゃん」
「…私、本当に駄目で……あなたに本当にひどいことを……っ」
 こんなに情緒不安定なトキヤもめずらしい。HAYATOとの日々に葛藤していた頃は、時折見せてはいたが、こんなにも弱っている姿は本当に久しぶりだ。自分と付き合って安定していたように思えたのに。
「俺はどんなトキヤだって許すよ。HAYATOだって許したでしょ、あのとき。だから、ほら言ってごらん」
 そう言って頬に軽く唇を押し付けると、震える手が俺の手を握り返した。そしてカサカサの唇で、
「指輪を、なくしたんです」
 と言った。


 指輪というのは、俺とのペアリングとのことだ。シンプルなシルバーリングで、俺がトキヤの成人祝いに買ってあげたものだ。
 成人祝いだけでなく、たまには恋人っぽいことをしてみようと気まぐれに買ったものではあったが、トキヤはそれを大層喜んだ。まわりに絶対に恋人同士だとは知られてはいけないといつも気をはっているのに、指輪だけは肌身離さずつけていたのだ。
 俺は、指輪なんて形があるだけで気持ちさえ通じあっていればいいと思っているのだけれど、トキヤはプレゼントだのイベントだのにこだわるタイプだったようだ。
 そういうのに頼らなければ不安になるのだろうかと思うと、責任も感じてしまうこともある。ただでさえ不安定な関係なのだから。

「ねえ、トキヤ。指輪なんてまた買ってあげるから。もっと良いの買ってあげる。それに前のは俺が勝手に決めちゃったやつだし…今度は二人でトキヤの好きなデザイン選ぼう?ね?」
「前のだなんて……どうして前のなんて言うんですか?捨てたわけじゃないのに…」
「どうしてって…だって、なくしたものは仕方ないんじゃん。あの指輪もあげてから結構たつし、新しいのを買ってもいいと思うよ」
 なだめるように言って、涙をすくってやっても、ボロボロと流れ落ちてくる。もうだめだと思って、ティッシュを何回も重ねてそこを拭ってやった。トキヤは嗚咽まで漏れ出す始末だ。
「うーん…トキヤ結構頑張って探してたから、交代ね。休んでていいよ。コーヒー飲んでてもいいし」
「でも、私が」
「これ以上部屋散らかされたら迷惑だって!まったく普段溜めこんでるから爆発するとひどいんだよなあ、トキヤは…」
「……っ」
「別に責めてるわけじゃないって…。いいから休んでて」
 なるべく優しく言っても、トキヤはぼたぼたと涙を流し続けている。
 トキヤは泣くとき、とても静かに泣く。声も出さずに、静かに。それは昔から変わらない。なんて小さな嗚咽なんだろうと思ったものだ。



 指輪は意外にも簡単に見つかった。洗面台の石鹸の隣にポンと軽く置いてあったのだ。顔を洗うときにでも外したのだろうか。こんな簡単なことに気付かないなんて、やっぱりトキヤってどこか抜けてる。
 シンプルな指輪はもうすでに鈍い光を僅かにはなっていて、潮時を知らせているような気がした。確かに馴染めば馴染むほど名残惜しくなるけれど、俺は指輪は苦手だ。抜けなくなるんじゃないかって不安に駆られる。肉に輪が埋められていくような気がするのだ。同時にそれは束縛を意味するような……。


「トキヤ、おいで」
 コーヒー飲んでてもいいよと言ったのにトキヤは何も飲まずに、ただソファに座って待っていたようだ。俺が指輪あったよと伝えると、散歩を待っていた犬のように、目を輝かせてそれを見る。みるみるうちに顔色は明るくなり、花開くとはまさにこういうことを言うのだろうという表情をしていた。
「あ、ありがとうございます…!こんなところにあったのですね」
「洗面台にぽんって置いてあったよ。もう、ちゃんと探してみないとねー」
「本当ですね。ああ、でも本当によかった…」
 するりと白く細い指先が、俺から指輪を奪い取った。彼はそれをごく自然な動作で左手の薬指にぴったりとはめる。トキヤの細い薬指にそれがあまりにも違和感なくはまっていて、少し怖かった。
「ねえ、トキヤ。やっぱり新しいの買ってあげる。それ、ちょっと古くなってきたよ」
「そうですか?磨いたりはしているのですが…」
「大丈夫だよ。買い替えるだけだもん。別にそれを捨てたからって俺たちの関係が終わるわけじゃないよ。古いのよりは新しいものがいいはずだよ」
「そんなことはないですよ。私にとっては大切な思い出がつまっていますから」
 ふふふと笑うトキヤは可愛いけれど、なんだか俺には納得がいかない。ピースがうまくはまらない。
「ねえ、トキヤ。指輪ってそんなに大切?それがなくっちゃ俺たちの愛情ってはかれないものなの?そんなものが証明になるの?」
 そう言うとトキヤも怪訝そうな表情をする。こういったときの空気は大抵どんなに話し合ってもわかりあえない。どちらかが折れるしかないのだ。トキヤもそれを察したようで、フウと大きなため息をつく。少しいらっとした。
「シャワーを浴びようとしていたんです。なので音也、出て行ってくれませんか」
「別に今ここで脱げばいいじゃん」
「嫌ですよ」
「男同士なのに?」
「恋人同士だから、です」
 先ほどまではらはらと涙を可憐に流していた恋人はどこへやら。今度はきりっと睨みつけるような顔をして、出ていけ、と念じる。俺も負けずと大きなため息をついて、浴室を出た。扉の奥で小さくありがとうございますという声が聞こえた。




 久しぶりに自分の指輪を見に行った。箱の中に無造作に置かれているそれは、あまり使用していないからかきれいだ。
 俺は指輪は苦手だ。いつ抜けなくなるかと怖くなるからだ。肉に埋まっていく想像ばかりがされていく。
 トキヤの白く細い指先ならするりとすぐさま抜けてしまうかもしれないが……。
 いや、あれは恐ろしいほどに馴染んでいた。トキヤの一部となるように溶け込んでいた。
 トキヤは愛情をモノではかる。それってそんなに大切なことなのだろうか。もっと一緒にいる時間だとか、話す時間、理解しあう時間、セックスする時間、買い物、仕事、一緒に眠ること。恋人としてできることはたくさんあると思う。
「あ……。そういえばあいつシャンプー切れてたんじゃないかな…」

 すくっと立ち上がって浴室へ向かい、替えのシャンプーを用意して、扉を開いた。
「ねえ、トキヤ。シャンプー…」
「ああ、ありがとうございます」
 白い裸体を惜しげもなくさらけ出し、トキヤはシャワーにうたれていた。そのままトキヤは手を伸ばす。おれはトキヤの手を見て驚いた。差し出された右手ではなく、壁に置かれていた左手には指輪があったのだ。
「音也?」
 ぼたぼたと濡れた黒髪を滴らせたまま、トキヤが俺を呼ぶ。
「何でシャワー浴びるのに指輪しているの?」
「…もうなくしたくないんです」
「ちょっと、トキヤ異常だよ」
「は?」
「だって、さっきだってちょっとなくしただけで怖いくらい取り乱すし、おかしいよ。そんな小さなものに何が埋まってるの?宝石?金?安い指輪だよ?」
「…っな、なんであなたはそんな悲しいことを言うんですか…!」
「だって、トキヤがそんなものに執着するから!指輪をなくしたら俺たちも別れちゃうの?」
「違います!そんなことは…」
 ふつふつと血液が沸騰する。全身が熱かった。ザアアアとシャワーの音に負けないぐらいの声が響く。
「こんなの……っ」
 びしゃんびしゃんと濡れたタイルを踏み荒らし、裸のトキヤから指輪を奪い取った。濡れていたからか、簡単にぬるりと抜けて、拍子抜けだった。
「やめてください音也!」
「……っ」
 思い切り投げつけると、鏡にガコン!と当たって、それは排水溝の狭間と流れてしまった。
「はあっ……はあっ…こんなの……っこんなのいらないよ……っ」
 わけもわからず心臓がばくばくとしている。シャワーにうたれたままのトキヤはそのままずるずると鏡に手をあてたまま、崩れ落ちてしまった。
「うう……う、うう…」
 トキヤはまた泣き始めた。今日は何度泣き顔を見たことだろう。白い裸のまましゃがんで泣いているトキヤを見下ろしていると、妙な気持ちが沸いてきた。
「うっ……う、う…」
「立てよ」
「……っ」
「立てるだろ?立てよ」
「っく……うう…」
「……立てよ!」
 しゃがみこむトキヤの腕を引っ張りだし、濡れた体を抱きとめて、そのまま乱暴にキスをした。シャツがびっしょりと濡れて、肌に貼りつく。デニムも、水を含みすぎて重くなった。
「んん、ん、……っふ、う……」
「は、あ、ふぁ……っお、とや……んぅ…」
 舌で蹂躙し、唾液も涙も、すべてシャワーで流されていく。そのまま、トキヤの胸の飾りに触れ、こねてやるとすでにそれはコリコリと硬くなっていた。
「おとや……ん……」
「指輪なんかなくたって、こういうことできるよ……」
「はっ、んむ……」
 濡れた手を滑らせ、彼の下腹部に触れるともうそこは半勃ちだった。おかしくて思わず笑ってしまう。
「今度はここに指輪はめてみる?」
「んんーっ…」
 つい、と彼の性器を指で撫でると、びくびくとトキヤが震えた。くたりと力なく俺の体に寄り掛かってしまう。
「それ、指輪って言わないでしょう…!」
「はは。そうだね…別のだね」
 トキヤはずるすると体をおろし、俺のデニムへと手をかけた。カチャカチャとバックルを外す音はシャワーの音で聞こえない。
「なに?舐めてくれるの?」
 コクンと、上目づかいで頷くトキヤはいやらしい。先ほどまで指輪指輪って言っていたのにどうしたんだよ。
「いーよ。そういうの。もう俺、バッキバキだからさ。いれさせて」
「ちゃんと慣らしてくださいね…」
 よいしょ、とトキヤは立ち上がって、俺に背中を向け、お尻を突き出した。自ら指でそこの箇所をくっと広げてみせる。この子どうしたの。指輪がないから?指輪がなくなっちゃったから、これで取り持とうとしているの?指輪の次に大切なのはセックス?
「俺はねえ、トキヤが気持ちよければそれでいいんだよ」
「嘘つき…んぅ……!」
 いつのまにか、こんなにガバガバになっちゃったね、トキヤ。指を突き入れてぐりぐりとするとトキヤは気持ちよさそうに喘いだ。指輪はもういいの?
「音也……すみません……」
 ぽろぽろと涙を流して、振り向きざまに謝るトキヤはやらしくてかわいくてきれい。腰揺れてるし。でも何に対しての謝罪なの?
「いいよ、許してあげる」
 俺も何に対しての謝罪なのかわからないまま、こんなこと言っちゃうんだけどね。

 でも、そうしないと関係って続けられないからさ。追求し続けてたらキリがないよ。





 事が終わったあと、トキヤはもう一度シャワーを浴びるといって、俺を追い出したあと一人で入ってしまった。
 今、ベッドでぼーっとしているが、なぜあんなに指輪なんかに躍起になってしまっていたのだろうと思う。
 けれど形あるものに執着するトキヤにイラついたのは事実だ。そんなものがなければ、不安になってしまうのは俺のせいだけじゃないきっと。

「音也」
 タオルでくしくしと髪を拭きながらトキヤがやってきた。今度はきっちりとパジャマを着ている。そして、カチン、とテーブルの上にそれを放り投げたのだ。
きらきらと光るシルバーリング。
「トキヤ、これ…」
「排水溝に流れてしまったと思ったのですが、引っかかっていたのでとれました」
「見つかったんだ……」
 俺が何とも言えない表情をしていると、トキヤはしくしく泣いたりせずに、いつものトキヤらしい凛とした表情をして、
「ちゃんと洗いましたよ」
 と言った。
「あなたにとっては何でもないものかもしれないけれど、私にとっては大切なものなんです」
「…うん」
「もう、それは私のものです。勝手に奪わないでください…ん、」
「んっ…」
 有無を言わさぬ声色と唇で、トキヤはさて寝よう寝ようとベッドへ潜り込んでしまった。指輪はテーブルの上に置かれたままだ。
「音也、私は寝ますよ。あなたも寝なさい」
「あー…俺、ちょっと喉乾いたから、水飲んでから寝る」
「そうですか。ではおやすみなさい」
「うん、おやすみ」
 カチリとスタンドライトのみを残し、トキヤは眠ってしまった。俺はそっとベッドを抜け出して、ダイニングへ向かう。

 水を飲んで頭をすっきりさせても、俺は指輪のことが気になっていた。こっそりと部屋に戻って、テーブルの上の指輪をきゅっと握り締める。今、窓を開けて、これを放り投げたい気持ちになった。
「何やってるんだよ……」
 一人呟いて、指輪を枕元に置いておいた。翌朝、起きたらこの指輪が勝手になくなっていればいいのに、と無意味な願望抱きながら眠りについた。
「おやすみ、トキヤ」