6 | ナノ


 ある日トキヤはベッドの上で、これを使ってみましょうとアクアブルーのボトルを見せてきた。清涼感のあるデザインのそれは清潔なイメージがある。日焼け止めか、美容液かと思っているとトキヤはなぜか服を脱がし始めてきた。
「え、どうしたの急に」
「これを使ってみましょうと言ったではないですか」
「これってどれ…んくっ」
 いやらしいことなんて興味ありません!って顔しておいてトキヤは意外に性急だ。冷たく白い手はいつの間にか部屋着の裾から入り込み、ブラのカップをいたずらにずらした。
「ローションです」
 トキヤの少し掠れたきれいな声で耳元で囁かれる。思わず顔を赤らめてしまうと、目の前でニコリと本当にきれいに笑う。こんな顔してえげつない。
「音美、寝てください」
「んむ」
 いつになくスマートな動作で、ベッドに押し倒される。自分の上で嬉々として乗り上げる少女はいつからこうなってしまったのか。可憐な日々はどこへやら。
 いつのまにか、立場が逆転している?ふとそう思い、背筋が少しだけ震えた。
 トキヤはそんな内心は知らずに、ちゅっと軽く唇を寄せる。応えるように舌を差し出すと、軽く舌先を吸ったぐらいで、唇を離してしまった。思わずそれを目で追ってしまう。
「ふふ、そんな物足りなさそうな顔しなくてもすぐあげますよ」
 そう言って、トキヤは音美の唇をぱかりと開け、彼女のうすもも色の口から唾液を落としたのだ。
「えっ…んん…っ」
「ん……」
 唇の隙間から彼女の唾液が入る。初めての感覚だった。ディープキスでの直接的なやりかたではない、少し距離をはかったそれは、妙にドキドキを与えた。
「トキヤ、何いまの」
「きもちよくなかったですか?」
「いや…なんか変な気分だよ…別にトキヤのだし、気持ち悪いとかは全然ないけど」
「インターネットで色々動画を見ていたら、そういうことをしている女性たちをよく見たので」
 ふむ、とトキヤは考え込んでいる様子だが、驚きに隠せなくて思わず目を見開いてしまう。
「え?なにネットって。エロ動画?え?」
「俗っぽい言い方しないでください!確かに俗っぽいものではありますが…っ」
 か、と白い頬が薔薇色に染まっていく。いつになってもトキヤの恥じる姿はかわいいものだ。愛しくなって、思わずすべすべの手の甲を撫でてしまう。
「トキヤそういうのに興味あったの!意外!」
「興味というか…、その、私たちのやり方は正しいのかわからなくて…」
「やり方?」
「どこからどこまでがセックスなのか私にはわからないんです」
 トキヤはもう一度音美を押し倒した。そしてするりと彼女のパイル地のショートパンツを脱がしてしまう。
「私たちには終わりがないから…いれて、出して、おしまいではないでしょう?」
「ん…!」
 音美の白いショーツの縦線を、トキヤが細い指で何度もなぞると、徐々に息が切れ、脚をもぞもぞとさせてしまう。つま先がシーツの上で泳ぐ。
「それともイッたらおしまいですか?でもそれって自慰だけでも十分可能ですよね?」
「は、あう……」
 すりすりと、トキヤは指先のみから今度は手のひら全体で音美の陰部をショーツ越しに刺激をした。下腹部に熱が集まり、じんわりと濡れていく気がする。
「はっ、あ、……っときや、ときやぁ…」
「私は、あなたとの関係を理解したい」
「んん……ねえ、直接触って」
「同性同士の恋愛を理解したいんですよ」
「はあっ、は…は…っときや、」
 あと少しで達しそうなところ寸前でトキヤはすっと手を引っ込めてしまった。もどかしい熱に襲われる音美をトキヤは見下ろす。
「あなた、話聞いてます?」



 聞いてないふりをしているだけだよ。

 あの時のトキヤの問いに、音美は内心ではそう答えていた。自分でもずるいとは思う。でも、これ以上トキヤの話を聞いていたくないと思っていたのも事実だ。
 トキヤは本気で自分のことを好きなのだと思うと、怖くなってしまった。音美もトキヤのことは好きだった。けれど、最近のトキヤは怖い。自分よりもずっとこの関係を真剣に考えていたなんて!
 そこまで考えてはっとした。ハヤトの言っていた「レズごっこ」が今になってわかったような気がした。

 それから、音美はやんわりとトキヤの誘いを断るようになった。練習があるから、課題があるからと、ことある度に言い訳をつくっては彼女との性行為を拒否した。
 始めはトキヤも仕方ありませんねという顔をしていたが、そのうち勉強を教えてくれたり、一緒に歌をうたったり、普通の、元来の友人として過ごす時間が増えていった。音美はそれにあからさまに安堵していた。罪悪感も何もない。これでいいのだと、自分は健康的な生活を送っていると思っていた。

「音美、兄が日本に帰ってきたそうですよ」
 課題を見てもらっているとき、携帯を見つめながらトキヤが淡々と呟いた。その言葉に心臓が痛いほどにドキリとする。
「へえ。そうなんだ。おにいさんお疲れ様」
「今度、三人で食事でもしましょうか」
 三人。三人集まってしまったら一体どうなってしまうのだろうか。もしかして、三人で……。
 あらぬ行為の先を考えて、音美は太股を擦り合わせてしまった。
「……ひゃっ!?」
 すると、ひたりと太股に冷たい手の感触がした。短いスカートからむき出しの太股は無防備すぎる。音美が慌てて顔をあげると、トキヤが艶っぽい笑みを浮かべていた。でもどこかそれは冷たい。
「どうしたの、トキヤ……」
「あなたこそ。いやらしい顔していましたよ」
「そんなこと、」
 まさかトキヤとハヤトにいやらしく攻められる図を考えていただなんて口が裂けても言えなかった。
「兄が帰ってきて、嬉しいですか?」
「え?あー…嬉しいというか、うん。嬉しいよ」
「そうですか…音美、」
「ん?…んっ……」
 顔をあげ、トキヤがそっと口づける。トキヤからはいつも甘い匂いがする。女の子の匂いだ。
「あなたは、私がいつもどれだけ不安なのか知らないでしょう……っ」
 いつもだったらそのまま舌を絡めるはずなのに、そっと顔を離した。至近距離で見るトキヤの顔は少し泣きそうだ。
「不安って…何で?トキヤはきれいだし歌もうまいし、すっごく優しいじゃん!」
「でも男じゃない」
 その言葉に、首元に槍を突き刺されているような感覚を覚えた。息苦しい。
「男性じゃないってだけで、私はいつも不安なんです…っ」
「トキヤ……」
 華奢な体をぎゅっと抱きしめると、トキヤは力なく寄りかかってきた。ふわふわで柔らかくて頼りない。この人は、自分がいなかったらどうなってしまうのだろう。
「あなたは不安にはならないのですか?」
「え、不安…?」
「私が男にとられないか不安になったことはないのですか?」
 そんなこと考えたことなかった。だってトキヤの一番はいつも自分だと確信しきっていたからだ。
「考えたこと、なかったな……」
 素直に伝えるとトキヤは、落胆したような顔を見せた。わけもわからず「ごめん」と伝えた。
「もう、無理かもね……」
「何がですか」
「こういうことするの。やっぱりさ、始めから無理だったんだよ、こんなこと……」
「こんなことって」
「うちらの関係だよ。女の子同士の恋愛なんて……」
 トキヤは何も言わない。音美も顔をあげられないままであった。
「兄に感化されたんですか」
 思わぬ言葉に、音美はびくっとした。心臓を鷲掴まれたような感覚だ。
「なんで、ハヤトが」
「兄は私たちの関係に否定的でしたから、もしかしてあなたに何か言っているのではないかと思っていて」
 あっ、ハヤトとあんな行為に至ってることまではばれていないのか。そう思って、少し安心した。
「兄は過保護だから……、私のことを本当に心配してくれているのはありがたいんですけれども…でも、これは私と音美の問題だから、兄の言えることではないんです」
「……そうだね」
 本当にそうなんだろうか?ハヤトはこの関係にはまったく関係ないんだろうか。もう関係ないって言葉では片づけられないところまできている気がする。
「兄に何て言われたんですか?」
 レズごっこはもうやめろだって。
「……トキヤをよろしくねだって」
「本当に?それだけですか?」
「うん。だって、ハヤトが本当に大切なのはいつだってトキヤだけだもん。おれのことなんて別にどうでもいいんだよ」
 自分で言っていて、悲しくなってきた。
 ハヤトが自分に触れてきたのは、目の前にいるきれいな女の子、トキヤのためなのだ。
「じゃあ、この関係が無理だと言ったのはあなたの意志なんですか?兄は関係ないんですね?」
「わ、わからない…、わからないよ!」
 ぎゅっとトキヤに強く手首を掴まれ、ぼろりと涙が零れた。もう何が正解なのかわからない。きっとどれも正解ではないのだ。
「ごめんなさい…泣かせるつもりはなかったんです」
 ちゅっちゅっと、トキヤが頬にキスをしてくれる。トキヤとのキスはいつも安心する。ハヤトとのキスは不安になる。
「私も性急すぎました。ごめんなさい。音美、好きですよ」
 トキヤはきれいに、優しく笑う。
 トキヤにおれはもったいないんじゃないかなあ。もっと素敵な男の子がいるんじゃないかなあ。
 いつか、トキヤにとって素敵な恋人が現れればいいのに。トキヤの運命の相手はきっと自分じゃない。だってこんな最低な考え方しかできない。



「はい。おみやげだよ!」
 トキヤのいない部屋、ハヤトは何食わぬ顔でやってきた。
「おみやげ?」
 袋を開けると、そこには色とりどりの可愛らしい箱が詰めてあった。どうやら色んな国の紅茶のパックのようだ。
「紅茶?」
「うん。トキヤってブラックコーヒーばかり飲んでいるでしょ?君は飲めないけど紅茶なら飲めるかなって思って。一緒に飲んでみてよ」
 またトキヤのことばかり。内心そう思ってしまった。
「ありがとう。紅茶は結構好きなんだ」
「へえ。何が好きなの?」
「うーん。ミルクティーかなあ」
「砂糖もミルクもたっぷりめの?」
「そうそう!それでいつもトキヤに淹れすぎです!太ります!って怒られてるんだ」
「あはは!僕も実家にいるときはそうだったよ!」
「ハヤトも?」
「うん、僕も甘党だからね〜ミルクティーよくトキヤと一緒に飲んでいたよ」
 互いにふふふと笑いあうと、もっと違う出会い方をしていれば仲の良い友達になれたのではないかと思う。あるいは、
「普通の恋愛ができたかも」
「ん?」
「ハヤトのこと好きになってれば、何かまた違ったかも」
 ハヤトのほうへ顔をあげると、先ほどの笑顔から一転して、辛そうな顔をしていた。辛そうな顔はトキヤとよく似ている。
「トキヤにね、外国はいいよって話をしたんだ」
「トキヤに?」
「うん。外国なら同性同士でも結婚できるよって話した。同性愛の人ものびのびとしているんだ。その話をしてトキヤ何を言ったと思う?」
「なにを…」
 ハヤトを見上げたまま、そのまま言葉をリピートした。彼はおもむろに苦笑する。
「音美と外国にいってみたいだって。手を組んで歩きたいって」
「そんなの…日本でもできるよ!」
「うん、まあ女の子同士だし別におかしくないね?でもこんなの比喩表現だよ。もっと堂々として恋人として歩きたいって意味でしょ」
「……っ」
「だから君は何もわかっていないんだ。もうトキヤを縛るのはやめてあげてよ……」
 トキヤは音美の手をとって、そっと手の甲に口づけを落とした。その行動に、か、と顔が熱くなる。だがすぐさま切なさが襲った。
「ハヤトは、トキヤのためにおれに触れてたの?別れさせたいからずっと触ってたの…?」
「…え?」
「間違いを正すために、あんなことをしてきたの?」
「もしかして僕のこと好きになっちゃったの?」
 逆に質問されて、何も言えなかった。かああ、と熱は上昇していく。
「ふふっ……はは、……君って子は本当に……」
 ハヤトは握った音美の手を離さない。
「トキヤは、僕たちが何しているか知っているよ」
「え……」
 頭がぐらつくような衝撃を覚えた。それに比例するようにハヤトの握る手はどんどん力がこめられていく。
「知ってて、君と恋人同士でいたいんだ」
「何で!?普通、こんなおれに幻滅するよ!こんな…こんな最低なことをして…っ」
「うん、君は最低だ」
「ん……!」
 ハヤトが笑った刹那、キスをされた。握った手はいまだに離してくれず、熱い体温が浸透していく、頭を抱えるように、いつもより乱暴に口づけをした。それがドキドキして、たまらなくなっていく。
「僕も最低だけどね」
「…っハヤト……」
「はは、とろんってしてる…君は本当にばかだにゃあ」
「……ん」
「最低な者同士、どこかに逃げちゃう?」
「それは、だめ…トキヤを一人にするのは絶対だめ」
「もちろん、そんなつもりはないよ。僕もトキヤが大好きだから」
「三人で…三人でいられたらいいのに」
「キスもえっちも二人でしかできないよ」
「おれは、三人でもいいよ」
「は?」
「一回想像したことあるし」
「…君は本当に最低だあ。どっちもほしいんだ?僕もトキヤも」
「うん、どっちもほしいんだよ…」
 ぎゅっと、音美はハヤトに抱きついた。自身の堕落っぷりに呆れる。でも、どっちもほしい。


「……音美?」
 ガチャリ、と部屋の扉が開いた。その声に、今度こそ心臓が突き刺されたかと思った。声の主はもちろん、
「トキヤ…!」
「おはやっほー、トキヤ」
 べりっとハヤトから慌てて離れると、トキヤはつかつかと部屋に入ってくる。ハヤトはまったく動揺した様子はなく、トキヤも予想以上に落ち着いていた。
「……ハヤトに呼ばれたので、きてみれば…目の当たりにするときついものがありますね」
「トキヤ!おれ……っ」
「あなたはやっぱり男性がいいんですね。私と同じ顔した男性を選ぶのは複雑ですけれど」
「これでわかった?トキヤ」
「ええ…決心がつきました」
 トキヤがすっと近づき、頬を撫でた。ハヤトと同じ顔をしているのに、儚い。
「これで全部おしまいにしましょう。お互い辛かったですね」
「おしまいって…?」
「全部ですよ。私との関係も、ハヤトとの関係も」
 驚いてハヤトの方へ振り返ると、ハヤトはいつものにこり顔だった。
「君は何度も言っていたよね?トキヤのことは絶対裏切れないって。僕も同じなんだよ。トキヤは特別なんだ。絶対に裏切れない。それこそ他人にはわからない双子の絆ってやつだよ」
「男性に抱かれるあなたも興奮しましたけどね」
「えっ…」
 するするとトキヤは手の甲で右頬を撫でている。トキヤが少し怖い。
「さっき言ったでしょお。トキヤは君と僕がどんなことしているか知ってるよって」
「もしかして、今まで見てたの…!?」
 トキヤとハヤトは視線をあわせたかと思うと、にこりと静かに頷いた。なぜだが、今自分がとても裏切られたような気分になった。自分の方が裏切っていたと言うのに、いいや?どっちだ?どっちが先に裏切ったのだろう。
「もちろん男性に抱かれるあなたなんて、普通だったら嫌ですよ。けれどハヤトは別です」
「そういうこと」
 今度はハヤトが音美の左頬を撫でた。トキヤより体温が高い。
「私はハヤトを裏切れない」
「僕はトキヤを裏切らない」
「全部あなたがしてきたことですよ。あなたが、本当に女性だけを愛してくれたらよかったのに」
「中途半端なことをするからこうなるんだにゃ。男が好きか女が好きか、どっちかわからなかったんでしょ?」
 左耳から、右耳から甘ったるい声が音美を優しく責める。今、清算せよと言われているようだった。
「私は、トキヤもハヤトもほしくて、好きだっただけだよ…っ」
 ついに音美が泣くと、トキヤとハヤトが小さく笑った気配がした。
「でも、君はひとりしかいないね。分けっこないんだよ」
「かわいそうな音美…」
 そのまま、音美はしゃがみこみ、両耳を塞いで、ふさぎ込んでしまった。耳を塞いだまま泣いていると、自分の嗚咽しか聞こえない。もう誰の顔も見たくないと思った。何が悪くて、誰が一番に裏切ったのかわからない。何がいけなかったのだろう。
 
 しばらくふさぎ込んでいると、誰の気配もしなくなった。
 泣き疲れて、そのまま制服のまま自分のベッドで寝てしまった。



 翌日、トキヤはいなかった。どういう顔して会えばいいのかわからなかったから、かえって気が楽だった。
 しかし部屋の雰囲気がどこか違う。トキヤの荷物がなくなっているのだ。白いベッドだけがそこにある。
「トキヤ…?」

 学校へ行って、リンちゃんに聞いてみると部屋割りを変えたのだという。
「どうして…!?」
「あなたたちケンカでもしたのお?トキヤちゃんがあなたといると練習に集中できないし、あなたもトキヤちゃんがいると体をろくに休むことができないからって言って申し出たのよ」
「そういうのってアリなの!?そんな、部屋を変えるとか」
「…というか、特例ね。トキヤちゃんはこの学園でもトップクラスの歌唱力でしょう?VIP待遇よねえ…まあ、音くんは寂しいでしょうけれど、マアさまとか友達いっぱいでしょ?一人のほうがいっぱい遊べるわよ」
「でも…!」
「……この学校は恋愛禁止なの知ってるわよね?」
 ふと、彼の雰囲気が変わり、音美はぴたりと動きをとめた。
「同性であっても、恋愛は禁止よ。音くん」
「……」
「うふふっ。そういうことだから、まったね〜!」
 そう言って、彼はヒールの踵を返し、きれいな髪をなびかせて言ってしまった。
 あれは、恋愛だったのだろうか。自分とトキヤとの関係は恋愛と呼べるものだったのだろうか。そうなれば、まだ自分たちにとって救いのある展開であるように思えた。