★ねじくれた桎梏(1/10)
足首に巻き付けられた包帯を見るたびに、千鶴はあの日の恐怖を思い出す。
予兆なんてなかった、と思う。
本当はあったのかもしれない。見逃していただけかもしれない。
だけど千鶴にとってそれはあまりに唐突に訪れた。
「……縄で縛られているみたい」
白い包帯が千鶴の両足をそれぞれきつく縛り付けている。
もう血は滲んでこない。
治りの早い体質だから傷口はとっくに塞がっている。
だけどまだ歩けない。立ち上がることもできない。
腱が切れてしまったらしい。
普通の人間だったら、回復までに何ヶ月くらい掛かるのだろうか。
一生歩けないこともあるのだろうか。
医者に診せていないのでよくわからない。
千鶴の体質ならば、恐らくあと数日で完全に治るのかもしれない。
けれど、治っても歩ける自信はない。
いや、正確に言うと「治っても歩いてはいけない気がする」。
なぜなら、それは――。
「千鶴さん、お加減はどう?」
襖の向こう側から聞こえた声に、千鶴は弾かれたように顔を上げた。
返事をする前に襖が音もなく開くと、人の良さそうな壮年の女性がしずしずと入室する。
彼女はここで「女将さん」と呼ばれていて、怪我で不自由な千鶴の面倒を見てくれている。
女将と言うからここはどこかの店なのだろうが、この部屋から出ることを許されていない千鶴には、それ以上のことはわからなかった。
「あら、また残したのね。口に合わないかしら」
「………………っ……」
女将が禄に手を付けられていない千鶴の食膳に視線を落とし、悲しそうに瞼を伏せる。
千鶴は慌てて首を振って否定した。
食事をいつも残してしまうのは、おいしいおいしくないではなく、単純に食欲がないからだ。
毎日欠かさず用意して貰っているから、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
だけどこれまでのことや、これからのことを考えると、何もかもが不安で、上手く喉を通ってくれない。
「千鶴さんのことは沖田さんから任されているのよ。だから心配で……」
「…………ぁ、っ……」
その名前を聞いて、千鶴は萎縮した。
あの日の恐怖が脳裏に過ぎり、ぞわぞわと背筋に緊張が走る。
千鶴をここへ連れてきたのは他ならぬ総司で、彼からは外出を強く禁じられていた。
そもそもこの足では一人で外出など不可能なのだが、きっと外に出たいと思うことすら禁じられているのだろう。
出たい、とは思わない。
だけど、なぜ? という疑問だけが常に付き纏っている。
……本人から聞いた話によると、この女将は以前、街中で不逞浪士に絡まれているところを総司に助けられたらしい。
それが縁となり、今回総司から頼まれた千鶴療養の世話をしてくれているのだ。
恩があるから何でも力になる、何でも言ってほしい、と優しく微笑む女将。
その言葉に嘘偽りはないのだろう。
申し訳なくなるくらいに千鶴は助けられている。
歩けない千鶴が今屯所に戻っても、何も出来ないどころか足手まといにしかならない。
だから、この足が治るまではここに…………
いや、それ以上のことは今はまだ、何も考えてはいけない。
女将が食膳を取って部屋を出ようとしたとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
何日も何日もこの部屋でじっとしているだけだから、千鶴は何となく、足音で誰だか判別がつくようになった。
と言っても、この部屋に来るのは女将さんと旦那さん、あとは――
「――千鶴ちゃん、こんにちは…………あれ、女将さんこっちにいたんだ。お邪魔しています」
スッと開いた襖の向こう側に、千鶴の想像通りの人物がいた。
彼は女将がいることに気づくと、まずそちらへペコリと軽く頭を下げ、にこやかに入室する。
「沖田さん、いらっしゃい。今日は何を持ってきたのかしら」
女将も身体の向きを変え、総司へと微笑む。
総司はここの来るときにいつも手土産を持ってくるのだ。
今日は小さな包みを片手に乗せていて、それを少し持ち上げてみせた。
「千鶴ちゃんの食欲がないって聞いたから、今日はお菓子。何でもいいから食べてもらいたくて」
そう言いながら総司は千鶴のすぐ横に腰を下ろして、彼女の手にぽとりと手土産を置く。
その包みの中には金平糖が入っていて、総司が一粒摘むと、千鶴の口元へと差し出した。
「これなら平気でしょ? 口、開けてごらん」
「……あ、っ…………は、い」
言われるままに千鶴が小さく口を開くと、総司の指が千鶴の唇に触れ、それと同時に口内に甘さが広がる。
元来甘いもの好きの千鶴は知らずうちに顔を綻ばして、口の中の砂糖の塊に夢中になった。
総司が口元を弛めてそれを眺めている。
「全く、甲斐甲斐しいねぇ」
その光景を見守っていた女将が、呆れ笑いを浮かべて溜息を吐くと、静々と部屋を後にする。
廊下を擦れる足音が遠ざかっていく。
その音が十分に聞こえなくなるのを見計らってから、総司の指は千鶴の頬へと触れる。
「ご飯、ほとんど食べてないんだね。少しやつれてる」
「え、えっと……お腹、減らなくて」
以前よりこけてしまった頬。
総司の眉は下がり、心配げな表情だ。
千鶴は慌てて被りを振るものの、総司の表情は変わらない。
彼の指が頬から辿るように上がり、千鶴の目の下をなぞるように触れた。
「眠れてないのかな。この前よりクマが酷いよ」
「それ、は……眠く、なくて……」
たぶん、色々と考えすぎてしまっているせいだ。と、千鶴は思っている。
何をしようにも過ぎるのはあの日のことばかりで、それなのにあの出来事の意味も理由も未だに理解ができない。
「一日中ここに居るだけだと、そりゃお腹も空かないし眠れないよね」
屯所ではあんなに働き者だったんだし、と総司が苦笑いを浮かべる。
そんなことないと否定しようとするけれど、千鶴は一部納得ができたので思わず考え込んでしまう。
そう、お腹が減らないのも眠くならないのも、やることがなくて、疲れもしないからなのだ。
だから余計なことばかりが頭を過ぎってしまう。
何か仕事さえ与えてもらえれば楽なのに、ここではただ大人しくすることだけに意を向けなくてはならない。
この足では出来ることは限られているけど、でもやはり手持ち無沙汰が一番辛いのだ。
「あ、あの……沖田さん、私、何かすることはないでしょうか」
「何もないよ。君はここに居ればいい」
総司に意見するみたいで緊張する。
「でも、その……暇で……ずっと一人ですし……」
「それって僕があまり顔出せないことを責めてるの?」
途端に総司の表情がむっとして、千鶴はびくりと肩を揺らす。
「ちっ、違います……そんなつもりは」
「僕だって毎日来たいよ。でも今はあっちが忙しくて……」
総司がここに来るのは二、三日に一度。
屯所から離れた場所にあるため、なかなか時間を見つけられないらしい。
「今日は、平気なんですか?」
「…………」
千鶴が訊ねると、総司は黙り込んだまま千鶴を見詰め返した。
その澄んだ瞳に全てを見透かされてしまいそうな気分になって、千鶴は目を逸らし、催促する。
「あのっ……どうかされましたか?」
「君があまり喋らない、って女将さんが心配してたけど……」
総司の言葉に千鶴は目を丸くした。
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2013.03.27
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