★悪夢(1/3)
「……千鶴ちゃん」
そろそろ寝ようかと部屋の明かりを消したとき、廊下から声がかかった。
足音なんて聞こえなかったし、気配も感じなかった。突然の声に千鶴は肩をびくつかせ、心霊現象的なものだったらどうしようかと震え上がった。
しかしすぐに聞き覚えのある声だと気づいて、ゆるゆると襖を開ける。そこには声の通りの人物が立っていて、念のため下のほうへ視線を向けてみればちゃんと足がついていた。
「どうかしましたか?」
ほっとしながら、頭一つ分ほど開けた隙間からその人物を見つめる。
「ん、べつに。ちょうど明かりが消えたから声をかけただけ」
そうですか…としか言いようがなく、千鶴はきょとんとしながら沖田を見上げる。なぜこんな時間にここにいるんだろう、なんて疑問も浮かんでくるが、追求する気は起きなかった。
「今から寝るの?」
「はい」
なぜか沖田はすごく上機嫌だった。そっか、と言って千鶴の頭をぽんぽんと撫でて、見たこともないような満面の笑みを浮かべた。その笑顔に千鶴は言葉を失う。逆光の中に浮かび上がるその表情は。
なんて、恐ろしいのだろう……。
天変地異の前触れだ! と打ち震えながら、千鶴は災いが通り過ぎるのをひたすら待った。沖田はしばらくして気が済んだのか、千鶴の頭を撫で回していた手を離す。
そして、とんでもないことを言って去っていった。
「おやすみ千鶴ちゃん、僕の夢 見てね」
思えば悪夢の始まりはそこからだった。
沖田からそう言われた晩、千鶴は百足や油虫といったカサカサするものに追いかけられる夢を見て、泣きながら目を覚ました。
次の晩は、蛙や蛇といったニュルニュルするものにも追いかけられた。汗びっしょりで目覚めた。
日を重ねるごとに千鶴を追いかけるものはどんどん増えていった。
変若水の入った小瓶が人魂のようにホワホワと空を舞って千鶴を追いかけてくることもある。瓶は千鶴が逃げるにつれて大きくなって、最後には蓋が取れて赤い液体が滝のように降ってくるのだ。
濡れて重くなった着物をしぼる暇も与えず、次のものが次々と現れ続ける。
不逞浪士、血に飢えた新撰組の隊士、キンキラと輝く鬼がどこからともなく現れ、千鶴を追いかける。先ほどまでとは違い、追いつかれたら命に危険が及ぶ相手だ。千鶴の緊張はここで最高潮を迎える。
彼らに追われて恐怖した現実があるため、千鶴は眠りから覚めても震えが止まらない。時折、夢なのか現実なのか区別がつかないこともあり、精神的疲労は積もるばかりだった。
現実とは重ならない部分もある。
いつも何か怖いことがあったら、すぐに駆けつけてくれる優しくて温かい人たち――土方や斎藤、平助に原田が、決して現れてはくれない。
どんなに名前を叫んで呼んでも、彼らは夢の中までは駆けつけてくれないのだ。そのことが夢の中の千鶴をいつも絶望させる。
そして夢の終わりはいつも同じだ。
呼吸をするのも辛いほど走り続け、脇腹が痛みで裂けそうなほど逃げ続けた先に、いつも決まって待ち構えているのは沖田だった。
『千鶴ちゃん、こっちにおいで』
割れんばかりの微笑みを携えながら、千鶴の逃げていくその先にいつも立っていて、手招きをしているのだ。
千鶴は後ろから追いかけてくるものたちと、正面の沖田を見比べる。後ろは恐ろしい形相のものたちばかりで、前はにこやかな笑顔だ。
『千鶴ちゃん、おいで』
害のない優しい音で呼ばれる。
千鶴は乱れる呼吸を落ち着かせるように一度、ごくんと生唾を飲み込む。そして――
『絶対嫌です!』
直角に方向転換しながら叫ぶように言い返し、前からも後ろからも逃げるように一目散に走り出す。
傍目には沖田に助けを求めるのが正しい判断のように思えるだろうが、千鶴にとっては追いかけてくるものたち以上に、沖田の笑顔が恐ろしくて仕方ないのだ。
『逃げたら斬る、って言ったよね?』
一定の距離があったはずなのに耳元に冷たい声色が響く。次いで、刀が鞘から滑り出る音。
かくして千鶴は、いつも背中を向けた途端に沖田にばっさり斬られて事切れ、ようやく現実の世界に戻ってくることができるのだ。
「はぁ、はぁ…………最悪っ」
今日も悪夢に魘された千鶴は、涙と汗にまみれた朝を迎えた。
袖口で額をぬぐうと、すぐに着替えて外へ出る。この時間ならば、誰かが朝餉の準備をしているだろう。
「はえーな、千鶴ちゃん。今日は当番じゃねえだろ?」
「永倉さん、おはようございます。迷惑じゃなければお手伝いさせていただけませんか」
勝手場に永倉の姿を見つけて、千鶴はほっと胸を撫で下ろした。
夢の中に彼らは決して現れてはくれない。現実か夢かを区別するため、ここ最近の千鶴は起きたらまずこうやって勝手場に来て、見知った幹部を見て安心するのが日課だった。
これよりも早い時間に目が覚めてしまったときは、朝稽古をしている人がいないか道場の方へ行ったりもする。それほどまでに今の千鶴は、一人ぼっちの目覚めに恐怖していた。
「別に構わねぇけどよ、どうしたんだその顔。夜更かしでもしたのか?」
可愛い顔が台無しだぜ! と言われて、千鶴は苦笑いするしかなかった。
朝起きて鏡をちらりと覗き込んだとき、自分でも溜息が出るほど酷い顔だったのだ。目の下にくっきりと黒い隈が浮かび上がっていて、目はどんよりとして生気がなかった。
睡眠時間こそきちんと取っているものの、その殆どで魘されているような気さえする。連日の悪夢の疲れが一気に顔に出てしまったらしい。
「何があったか知らねえけど、吐き出せることなら吐き出しちまいな」
楽になるぜ!話しやすい相手でいいからよ、と労わられ、千鶴は少し元気を取り戻せた。永倉みたいな明るい人と一緒にいると不安も吹っ飛ぶ。その存在自体に感謝しながら、千鶴は朝餉の準備に取り掛かった。
そしてその日。
千鶴は永倉に言われた通り、人に相談することで気分スッキリさせようと、幹部たちのもとへ向かった。
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2011.06.18
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