★第1章 第6話(2/2)

玄関から部屋へ戻る途中。誰かが広間に入っていった気がした。
なんだか気が大きくなっていた私は、誰かに見つかると厄介だとかそんなことは頭にも浮かばず、迷うことなく広間を覗き込んだ。

そこにあったのは、山南さんの姿。

何故だろう。変な胸騒ぎがする。私の気配に気づいた山南さんはゆっくりと振り返った。

「まさか君に見つかるとは思いませんでしたよ」

私が何より驚いたのは、全ての悩みが解決したような、不思議なくらいに爽やかな山南さんの表情だった。ふと、彼の手元で何かが揺れた。

「・・・・・・これが気になりますか?」

山南さんが手にしていたのは、硝子の小瓶だ。中には毒々しい真紅の液体が満ちている。

もしかして・・・あれは――。

「これは君の父親である綱道さんが、幕府の密旨を受けて作った【薬】です」

変若水。
西洋から渡来した人間に劇的な変化をもたらす薬。しかし強すぎる薬の効果は、人の精神を狂わす。

「投薬された人間がどうなるか・・・・・・。その姿は、君もご覧になりましたね?」

私が大体のことを綱道さんから教えられていたとは知らず、山南さんはそう言う。私が京に着いた晩、初めて彼らと会った日の“まがいもの”たちのことを言っているのだ。

「綱道さんが行方不明になったことで【薬】の研究は中断されてしまいましたが、あの人が残した資料を基にして、私なりに手を加えたものが【これ】です」

山南さんは柔らかく微笑むと、手元の小瓶を軽く揺らした。
やはり、研究資料は山南さんのもとにあったのだ・・・・・・。私は心の中で舌打ちをした。

「服用すれば私の腕も治ります。【薬】の調合が成功さえしていれば、ね」

「――使うつもりなんですね」

半年前に山南さんと平助君の会話を立ち聞きしたとき、いつかこんな日がやってくるのではないかと思っていた。
いくら山南さんなりに研究を続けたと言っても、未完成の薬を使うのはあまりに危険すぎる。どんなに研究を重ねて誤魔化そうとも、変若水から生まれるのは“まがいもの”に変わりない。

だけど山南さんの目は真剣そのもので、本気で薬に縋るしかないのだということがわかる。放っておいたら、彼は確実に“まがいもの”になる道を選んでしまう。彼がそうならないためには。

「そんなものに頼らなくったって・・・――っ!」

私の力さえあれば――。
そう言おうとして、言葉に詰まった。私の言葉が途切れた直後、山南さんの激高した声が響いた。

「こんなものに頼らないと、私の腕は治らないんですよ!」

と、不吉な赤色を一息にあおった。
山南さんの右手からこぼれる小瓶。どくん、という心臓の音が響いて、彼はその場に膝をついた。

「ぐ・・・っ・・・・・・」

私は咄嗟に駆け寄って飲んだものを吐き出させようとしたのだけど、己の心臓を掴むようにして苦しむ山南さんの・・・白い髪、紅い瞳を見て、もう彼は手遅れだと覚悟を決めた。

「・・・・・・せめて苦しまないように、一瞬で。」

ゆっくりと刀を鞘から抜き取る。暗い部屋に差し込む僅かな光を吸ったそれは、細い月のように煌いていた。
その時、私の背後で戸が開く音がする。

「・・・・・・こんばんは、山南さん」

振り向かなくともわかる。その声は、沖田さん。彼は流れるように私と山南さんの間に入り、山南さんや転がる小瓶を見て全てを把握したようだった。

「千鶴ちゃんは・・・・・・部外者は刀を下ろしてくれるかな」

沖田さんは視線を合わせずに言った。その言葉は鋭さに私は凍てついた。

「おき・・・た、君・・・・・・・見ての通りです、お願い・・・・・・できますか・・・?」

苦しみ悶えながらも山南さんは沖田さんを見て、安堵したかのように薄っすらと笑った。そして、沖田さんは躊躇することなく刀に手をかける。

「安心してください、山南さん」

私からは沖田さんの背中しか見えなかった。刀が振り下ろされると変若水と同じ色の雫が宙を舞い、びちゃりと嫌な音を立て、山南さんがどさりと倒れた。
通常の人間ならば大怪我では済まないほどの傷を負わされた山南さんだったけれど、変若水を飲んだ彼は、きっと明日には動けるようになるだろう。そう、沖田さんはただ気絶させただけだ。

私はそれ以上、山南さんを見ることができなかった。沖田さんのことも、見ることができなかった。



私を気にする素振りもなく、沖田さんは山南さんを抱えて出て行った。しばらくすると山南さんが倒れたと聞きつけて幹部たちがやってきた。
大体の事情を把握した彼らは、土方さんの指示の下、山南さんを看たり伊東派の牽制や隊士たちの見張りに動き出す。その場にいた私を不審に思ったらしく、皆が何か言っていたような気がするけど、あんまり覚えていない。




「・・・・・・・・・」




――ふと我に返ったとき、私は屯所を抜け出していた。
さっき外へ出ようとしたときは沖田さんにあっさり止められてしまったというのに、今はなんて簡単に抜け出せたのだろう。皆それどころではないのだから、当たり前だ。

思い返せば池田屋や禁門の変・・・・・・あのときだって“それどころ”ではなかったのだから、逃げようと思えば逃げられた。ただ、私がそうしなかっただけで。今回だって、逃げるつもりはなかった。だけど気づけば外へ飛び出していた。

二月の夜はまだ寒い。こんな時間に外に出ても、泊めてくれる宿などないだろう。そもそもお金だって、あまり持っていない。江戸まで帰れるだろうか。



・・・・・・江戸じゃなくて、西に行こうかな。



ぼんやりと思い付いた考えのまま、私は足を進めた。
西へ行けば風間さんに会えるかもしれない。何の手がかりもない綱道さんを捜すより、薩摩藩という手がかりがある風間さんのほうが再会の可能性は高い。江戸に戻っても一人だし、もし新選組が私を捕らえようとするのならまず江戸方面を探すだろう。

だけど例え会えたとしても風間さんは私を受け入れてくれるだろうか。あの日、池田屋で風間さんの手を振り払ってしまった私を、彼は、鬼たちは受け入れてくれるだろうか。

湯水のように湧き上がる不安を振り払うかのように私は一歩一歩屯所から遠ざかっていった。
後ろから追いかけてくる足音にも気づかずに。






私が背後の気配に気づいたのは、屯所を出て随分と経ってからだった。きっと屯所から既につけられていたのだろう。今さら気づいた情けなさよりも、こんな状況のときにも即座に追いかけてきた彼ら組織に驚いた。

気配の主は私が気づいたことを察したのだろう、尾行するのも飽きたと言わんばかりに足音を立て始め、その音が闇夜にいやに響いた。それを無視したまま数十歩ほど歩いた頃だろうか。痺れを切らしたのか、ついに話しかけられる。

「こんばんは、千鶴ちゃん」

私は後ろを振り向くことも足を止めることもせず、ただ答えた。

「……こんばんは、沖田さん」

声がよく通るせいか、私が考えているよりもずっと私たちの距離は短そうで焦る。一気に詰められない程度の間がほしい。

「こんなところで何してるの」

沖田さんの口調はいつも通りだけど、少しばかりの苛立ちを感じる。
私はそれに気づかぬふりをして、なるべくいつも通りに振舞った。こんな状況でいつも通りも何もないだろうけど、目的の場所に少しでも近づくまで時間を稼ぎたかった。
このまま東へ行けば川が流れている。川辺は逃走に便利な場所だ。この通りを抜けた瞬間、一気に走り出せばきっと逃げ切ることができる。――沖田さん一人ならばの話だ。

もう一度意識を集中してみると、案の定、沖田さんより後方から僅かながらの気配を感じ取った。恐らく山崎さんだろう。
そもそも私が屯所を抜け出したことに気づいたのは彼ではなかろうか。山南さんの対応でピリピリとしていた幹部の皆さんに逃走を目撃されていたならいくら私でもすぐに気づく。
きっと山崎さんが私を発見して幹部に報告し、追っ手として沖田さんが差し向けられたのだろう。

「千鶴ちゃん」

山崎さんの実力が如何ほどのものか知らないけれど、まともに戦えば沖田さん一人ですら私の手には負えない。斬り合いになった場合、沖田さんなら恐らく手出しを拒むだろうけど……。戦いにはならず、逃げることだけを考えたら彼の存在は厄介だと思った。

「質問に答えてくれるかな、千鶴ちゃん」

本当はあの姿を見られるのは嫌だけれど、逃げ切ってしまえば二度と会うこともない。だとしたら……いざとなれば本来の、鬼の力を使ってしまえばいい。

「……沖田さんこそ、どうしたんです」

苛立ちを帯びる沖田さんの声に焦りを感じながら、私の足は次第に速さを増していく。沖田さんの足音もどんどんと速くなってくる。

「…千鶴ちゃん」

とぼけるような私の言い方が悪かったのだろう。沖田さんの声は急速に冷たくなり、苛立ちが突き刺さるような殺気へと変化する。
防衛本能なのか、自然と小太刀に手が伸びる。だけど、触れる前に拳を握り締めた。
彼を・・・彼らを傷つけてはいけない。少なくともこの一年、お世話になった人たちだ。お礼もせずに勝手に逃げ出すという不義理を働いてしまったけど、それ以上の迷惑はかけたくない。

「逃げたら殺すって言ったよね」

沖田さんが笑いながらそう言った次の瞬間、力強く足が踏み込まれ、一気に距離が縮まった。
その一瞬に解放された凄まじい殺気は少しでも動いたら殺すと言っているようで、さっきまで逃げる方法を思案していたというのに私の足は一歩も前に踏み出せなかった。

「……っ」

彼の刃が闇夜に煌き、私は息を飲む。瞬きをした僅かな時間に、その切っ先は私の喉元で止まっていた。冷や汗が私の額や背中をツーッと流れる。そこから最初に動いたのは、

「沖田さん、何をしてるんですか!」

山崎さんだった。
隠れていたはずの彼が飛び出してきて、慌てた様子で沖田さんに近づく。

「山崎君は黙ってて。千鶴ちゃん、どうして逃げたの」

沖田さんの言葉に山崎さんが足を止めた。
どうして、と言われても気づいたら屯所を出ていた…なんて答えたら沖田さんはますます機嫌を悪くしそうだ。そう思い、私は一番自然な理由を述べる。

「だって、秘密を知ったら殺すって……。だから逃げるしかないと思いました」

彼らは私に逃げれば殺すと言ったけど、これ以上の機密を知れば殺す、とも言った。
もともと綱道さんから聞いていたとはいえ、彼らにとっては今回の件で全てが漏れたと思っているだろう。

「殺されたくなくて逃げたわけ」

殺されたくない・・・?
確かに死にたくないし、殺されるわけにはいかない。でもそれとは少し違う気がして、私は頭を振った。



ならば、どうして逃げたんだろう。
故郷を滅ぼされ、薫を失い、綱道さんまでいなくなって。私に残されているものなんて何もなくて、だから京まで来た。
今あるのは風間さんへの僅かな期待……それと。



新選組だけなんだ。



倒れた私を心配してくれた。いつも笑顔でいろって言ってくれた。落ち込んだら励ましてくれるし、戦えば喜んでくれた。それが嬉しかった。
家族でも同種族でもない彼らに優しさや温もりを与えてほしかった。ここが居場所だと思いたかった。



だから私、皆の役に立ちたかったんだ。



役に立つことでここにいる理由がほしかった。変若水でも“まがいもの”でも何でも良かった、それを自分の中の正当理由にして、縋っていたんだ。なのに、

「……役にっ、役に立てなくて、部外者で、何のためにあそこにいるんだろうって。厄介者でしかないって思ったら……」

溢れ出た思いを口にすれば、沖田さんは私をじっと見つめ、刀を鞘へ納めた。
私が驚いて目を見開くと、意地悪な顔が笑う。

「千鶴ちゃんは部外者で厄介者で、始末できたらそれが一番楽なんだけどさ」

本当、意地悪でタチが悪くて嫌な人だと思う。

「でも君の作る料理はみんな好きだよ。洗濯や掃除はホント助かるし、稽古や巡察だって頼ってるんじゃないかな」

沖田さんの言葉に私は目を瞬かせた。もしかして、慰めてくれているんだろうか。

「それに土方さんをからかうときに千鶴ちゃんと一緒だとずっと楽しいよ」

「わ、私は楽しくありません!」

以前沖田さんに巻き込まれたせいで私まで一緒に土方さんに怒られる羽目になったことが何度もある。
私の慌てた苦情を聞くと、沖田さんは困ったような安心したように片眉を下げて笑った。



「それで千鶴ちゃん。”ごめんなさい”は?」

「え?」

「素直に謝ったら許してあげるから」

「あの…意味がよく……」

沖田さんは沖田さんらしく、私の気持ちの整理とかを全く関係なしに話を進める。
許すって何を?秘密を知ったこと?逃げたこと?謝る程度で許される問題なの??
ニコニコと笑う沖田さんを訝しげに見ていると、山崎さんが話に入ってきてくれた。

「雪村君、勘違いしているようだが君を殺すつもりはない。土方さんにも傷つけず連れ戻すように言われている」

山崎さんは沖田さんへ厄介そうな目を向けながら言った。
唖然とした私が沖田さんを見つめると、ケロッとした笑顔を向けられる。

「僕だって殺すつもりはなかったよ。でも逃げようとするからさ、」

ちょっと脅かしただけ。
悪気なんて一切ないような物言いに、私と山崎さんが溜息をついたのはほぼ同時だった。

「あんな態度では誰でも逃げます。俺だって焦りました。彼女の身になって考えてください」

「はいはい、わかったよ。で、千鶴ちゃん。ごめんなさいは?」

「えと……ごめんなさい・・・?」

若干納得がいかないものの、一応素直に謝った。
私が言い終わった途端、沖田さんは私の右手首を強く掴んで、くるりと回って屯所へと向かって歩き出した。
まるで初めて会った頃のように痛いほどきつく、硬く、骨が軋むほどに掴まれた。

だけどそれが嫌ではなかったのは、きっと私の中のなにかが変わってしまったからなんだろうと思う。
それでもいいや、と私は青白い月を見上げた。









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2011.05.08

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