24.捨てた想い、残った想い

 羽京をリーダーとした探索隊は予定通り出発し、今も順調に歩みを進めているようだとミカゲは人づてに耳に入れていた。
 当日、コハクは見送り衆の中からミカゲを見つけ、人目も憚らず飛びついた。耐えるようなその手つきに昔を思い出し、ミカゲは別れへの恐れを飲み下し、背を撫でながら何度も大丈夫だと声をかけてやった。不意に抱擁を解き、瞳を潤ませながら、"ミカゲこそきっと大丈夫だ"と言ったコハクの真意は未だに判明していない。
 淡い月明かりが世界を照らしている。消灯時間は過ぎていたが、彼女は焼却場に足を運んでいた。不用品の処理や素材として使う灰を作るため、常に燃料が豊富に蓄えられている。だから小さな薪なら一本抜き取っても知られることはない。
 この設備を使うか、それとも全く別の場所で一から火を起こすか。少し迷ってから彼女はここに留まることを決めた。燃えかすが残る場に枝や薪を組み上げ、手にしたろうそくを使って点火する。その流れでろうそくの灯は吹き消しておいた。
 たき火にも満たない小ぶりの炎。誰かが不審がって様子を見に来るだろうか。それならそれでいい、理由が出来ると考えた直後に自嘲。もう、必死になるのは疲れてしまった。
 彼女が懐から取り出したのは、千空の誕生日に贈ろうと彫った木のお守りだった。角が黒く焦げてしまっているが、どうしたって手元に残り続けた未練の象徴。

「……」

 人差し指一本に紐をかけ、炎に向かって腕を伸ばす。
 指を曲げれば終わり。熱さに耐えきれなくなれば終わり。突風が吹けば終わり。誰かが来ても、炎が燃え尽きても負け。賭けるものも得るものも何もない、ただの逃避。

(……ちゃんと伝えていれば……こんな結末にはならなかったのかしら)

 形を変え続ける炎に意識全てが揺らされる。

(いいえ、これこそが私にお似合いなの。"あの人のために言わない"なんて嘘。"あの人のせいで言えない"ことにして、意気地のなさを正当化しただけ。こんな醜い性根の女が好かれてもらおうなんて、おこがましいにも程がある)

 今なら、きっと断てる。

(変わらなきゃ。この先の道を…ちゃんと進んでいけるように…)

 両目を伏せ、大きく息を吸った。

「ミカゲ」
「っ!!?」
「!?ちょっ…オイ…!?」

 突如上がった自身の名にひどく驚いたミカゲがへたり込んでいた。胸の内にしっかりと未練を引き寄せて。

「せっ…せっ、せんく…」
「そこまで驚くこたぁ…いやマジで大丈夫か…?」
「はっ…はぅ……」

 闇夜から現れた声の主、千空が急ぎ駆け寄り身を屈めて彼女を窺う。一気に脈拍を速めたのだろう。両頬は紅潮し、懸命に息を継いでいる。
 彼は反射的に目の前の小さな背中に手を添えていた。

「やっ…」
「っ、わ、悪り…」
「…少、し……待って…」

 段々と呼吸の間隔が広がっていく様を辛抱強く見守る。やがて彼女が細かく首を振り、ゆっくりとした動作で立ち上がった。千空も続き、小さな炎を左にして向かい合った。

「……抜け出してごめんなさい」
「いやまあ…好都合だ」
「…?」

 両側の腰をそれぞれ掴み、炎へ視線を傾け、彼は切り出した。

「婿探しとやらを始めたらしいな、テメー」
「!…もう…そう言って広めたのは誰なのよ…」
「誤りか?」
「いいえ…私もいい歳だもの」
「んじゃソッコーやめやがれ」
「は?」

 対して地面を眺めていたミカゲが思わず顔を上げる。彼が耳の穴をほじくり出す。

「浮ついた空気になんのは迷惑なんだよ。造船作業が本格化すりゃ、危険を伴う作業も一気に増える。事故でも起こされちゃたまんねえ」
「それは…それは私の責任になるの?私は自分から言いふらしたつもりはないし、相手を探す年頃の人は他にもいるわ。確かにまだ大変な時期が続いているけど…戦いが終わって平和になったし、そもそも誰もが順に通る道でしょう?」
「……」
「…巫女様と年の近い者は、御前試合で長が選ばれるまで縁談を待つ決まりなの。だから、私は試合の後ルリと同時に夫を迎えるはずだった。……千空、あなたなら分かるでしょう。私にはもう時間がないのよ…!」
「……」
「だったら……せめて、石神村の長として、期限と理由を添えて命じてちょうだい。従うから」
「……」
「………何とか…言ってよ…!」

 自らを刺す刃をこれだけ言わされて、なのにそっぽを向いてだんまりを決められて。
 かっと頭に血が上った彼女が動こうとしたその時。

「あ゙ーーーーっクッソ!!」
「!?」

 夜の静寂を破る絶叫に怯み、お守りが滑り落ちた。

「俺が言いてえのはなあ!!」

 一歩二歩、千空が二人の距離をゼロにする。後先を一切考えず、ミカゲの両肩を掴んで固定した。
 赤い瞳が、すぐそばの炎と同じく爆ぜて、瞬いていた。

「テメーが好きだ。だから、婿探しはやめてくれ」
「!!!」

 あぁ、眩暈に襲われる。
 目前の赤の揺らめきに惑って崩れ落ちてしまいそうで。けれど、支えられた異なる温度に許されない。
 彼の瞳の中で爆ぜた火花が彼女の心臓目がけて飛んでいく。そして、長い間燻り続けていた種を見つけ、潜り、弾け、一瞬で共に燃え盛っていた。

「………いい、の…?私で…?」
「あ゙ぁ゙そうだよ!」
「……本当に……いいの…?」

 涙が押し寄せて流れても、もう火の粉の一つも消せやしない。

「いいっつってんだろ!つか泣いてねえでとっとと振れよ!」
「……ずっと……砕かなきゃって……思ってた…」
「あ゙!?」
「…うぅ…」
「………あ?」

 ぼろぼろと透明な雫を落とす彼女が。この感情に気づいてから泣かせることしか出来ないはずの彼女が。
 どうしてこんなにも、星の散る溶けきった眼差しで見つめてくれるのだろう。

「あなたが好き…」
「!!!」
「ずっと……好きなの、千空、あなたが…」
「なっ…!?じゃ、何で…!?」
「……っ」

−だ、か、ら、非合理の極みの恋愛なんぞ1mmも興味ねえし唆らねえっつの!−
−しつけえしつけえ!これ以上無駄な時間取らせんな!−

(………あぁ……そう、だった)
「…俺のせい、なんだな」
「ち、ちが…」
「あ゙ー……クソ…その…」
「違う、違うの!あなたは悪くない!だってあの頃も、い、今も……今もっ!嘘じゃないんでしょう!?」
「!あ゙ぁ…そうだ。その通りだ」
「だからっ!私が悪いの!私が全部勝手に決めつけて、全部から逃げた!ごめんなさい千空、私は卑怯者なの、ごめんなさい…!」

 溶けた眼差しが彼女の手の平に覆われ隠れてしまう。炎が遮られ、尽きてしまう。

「知るかよ…名ばかりの卑怯者なんざその辺にゴロゴロ転がりまくりだわ…!」
「そんなんじゃ…!」
「知るか!」

 どうか、消えないでくれ。
 この熱を、この炎を、今度は直に渡すように。衝動に従い、千空はミカゲを強く抱きすくめていた。

「あ…」
「頼むから泣くな……こちとらテメーがどっかに行っちまわねえことが分かって、両手上げて浮かれてえんだ。テメーは…違うのか?」
「!!」

 腕の中の彼女が間を置かずに否定した。それでやっと、止まっていた呼吸が再開された気になった。
 湧き上がっていた愛しさという想いに触れ、自身の内に招くことが出来ていた。千空が最後の隙間を埋めたいと何度も力を込め直す。しかし、彼女は顔を覆った手を外す素振りも見せず、ただ呆然と立ちすくむ。

「……なあ、手…」
「許して…千空…」
「あ゙?何をだよ?」

 ぎゅ、と力む肩。増す一方の震えを何とかしてやりたいと、彼は背を丸め、身体全てで彼女を包んでいた。

「…私は…結局…変わることが怖かったの…。あなたとこれまで築いた大切なものが、私が変わったせいで…壊れるかもって、考えただけで、耐えられなくて…!少しでも苦しさから逃げるために、変わらない言い訳を…外に…あなたに押し付けた…」
「……なるほどな…そういうことか」
「っ…」
「ククク…やーっと理解したわ。テメーの行動原理」

 腕を解く。代わりに細い手首を掴む。
 何度も主張され、観念した彼女が乱れきった泣き顔をさらけ出す。
 どちらもずっと、瞳の奥の瞬きは衰えないままで。

「俺も壊したくなかった。俺は変容した俺を認めなかったら大事なもんまで否定しちまうって思った。一緒なんだよ、耐えらんねえって」
「!」
「そうか…テメーも……そうか…」

 長い眉毛を中央に寄せ、間にいくつも皺を刻み、それでも彼は片側の口の端をついと上げ、歯を少しだけ開いて笑っていた。
 これはきっと今まで作ったことのない表情で、きっと彼女にだけ触れることを許した剥き出しの弱さ。
 燃やされて黒炭になった心臓が、もう一度役目を果たそうと音を立てた。

(………あぁ……変わりたい、私も…!今さら、でも、あなたと一緒に…今からでも…!!)
「…せん、くう……私…!」

 うなずいて、そして千空は息を呑んだ。
 伴う感情が異なるだけで、そこから流れる体液の成分はいつだって同じだと定義していた。それは間違いなく正しい。その上で、今ミカゲの頬を伝う涙には"何か"が新たに加わったのだと確信を得る。

「あなたが好き。あなたに好きになってもらえて、嬉しいの、私、こんなにも…!!」
「ああ、俺もだ、ミカゲ…!!」

 今度こそ遮るものはなく。彼らはついに鼓動を共有し、一つに重ねていた。
 満たされ、溢れ。暗いもの全てが見る影もなく溶け去っていく。
 これは、逃げても、傷つけても、それでも諦めたくないと縋って手繰り寄せた結末。ようやく虚空へ放てた身勝手な想いと引き換えに、彼らは互いの存在と温もりを抱きしめられていた。
 一体どれほどの幸福なのだろう。その答えを導くための式は、初めて二人が向き合えた今この瞬間から、やっと一文字目を綴り出せるのだ。

*

 このひと時を終わらせてしまうのがどうしても惜しく、千空は薪をもう一本だけくすね、ミカゲは消火用の水で軽く顔を整え、身を寄せ合って座っていた。いつしか千空は彼女の右肩を支え、ミカゲは彼の右胸に頭を委ねていた。
 ぱちぱちと火の粉が舞い、空へ昇ろうとしては一瞬で見えなくなる。全てが満ち足りて、唇を動かすことさえ億劫になってしまう。貴重な経験だった。
 気だるさを払おうと一つ息をついてから、ミカゲが口を開いた。

「…もう少し…話していい?」
「ん…何だ」

 彼の返事も明らかに緩やかで。きっと同じことを考えていると、胸が熱くなる。

「一緒に夕焼けを見たあの日ね…あの日、言えなかったことは……このことなの」
「……あ゙ー…そりゃあ……無理な話だなあ」
「ねえ…。あなたが引いてくれなくて苦しかったけど、それ以上に幸せで……この気持ちを捨てたくないってはっきり分かったわ」

 回された手がしっかりと応えた。

「……悪かった。あん時の俺のせいで」
「違うってば。さっきも言った通り、その時点の本心なんだからあなたは謝っちゃ駄目なの。間違っていたのは私。大きな決断の理由に他人を使った私だわ…」
「だとしても、結果オーライでもういいだろ。俺だって告るっつう決断したのはテメーの話を聞いたからだっつの。聞いてなかったら動いてねえだろうし、んでそのままテメーは他の男のものになってた」
「…ありがとう…」

 ミカゲが微笑み、すり寄った。そうしてから、すっかり明るさを失った炎に気づき、名残惜しさを見せつつも背筋を正していた。

「そろそろ戻らなきゃ…」
「だな…」
「千空、あなたは何を灯けてきたの?」
「何も」
「あらそう。えっと、私はろうそくが…」
「片付けついでにやるから貸しな」
「お願いね。じゃあお水を汲んでくるから」

 二手に分かれ、水場に再び戻ったミカゲが水面を覗き込んだ。高い位置に映る月は満ちた円から少し欠け、眺める彼女は泣き疲れてまぶたを腫らし苦笑していたが、この上なく晴れやかだった。
 と。

「ミカゲ!」
「あ、はい!」
「……テメーのか?これ」
「あっ」
「そこに落ちてた」
「ええと…その…あなたに贈ろうと思っていたものなの。誕生日に…」
「……」
「あ、ちょっと、返して」
「もらう流れだろ今の」
「端が焦げてしまっているでしょう。ちゃんと新しいのを渡させて」
「嫌だ」
「ええ…?」

 拾っていた札型のお守りをひょいと上げてから、千空が器用に片手で紐を被る。短く先を確認して、服の内側へ入れた。

「これがいい」
「そんな焦げたお守りなんか縁起悪いわよ」
「ククク、逆だろ。ここまで燃やされなかったしぶてえ念が詰まってらあ」
「あら…そういうのは信じないんじゃないの?」
「……惚れた女が俺のために作ったんだろ」
「!」
「あ゙ークソ言わせんな!行くぞ!」

 ミカゲから水を奪い、燃え跡にばしゃりとぶちまけ、器も放り投げ。耳まで真っ赤に染まった千空が足早に歩き出す。
 慌てて追いかける彼女は今度こそ心の底から笑顔を作り、前を行く背中を愛しげに見つめたまま、力強く駆けていった。



  

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