16.合理的な感情

 新年から数えて五日目。発掘隊の帰還、そして千空の誕生日の祝いも過ぎ、村は多少落ち着きを取り戻していた。
 年が明けて早々、千空、クロム、マグマの三人は"タングステン"という名の鉱石を得るため洞窟の奥深くまで潜った。これはケータイの心臓部である真空管製作に必須のものであり、止まりかけていた歩みを再び進められるかどうかの正念場だった。
 三人は無事タングステンを持ち帰った。しかし千空は拘束され、訳も分からぬまま移動させられる。それは仲間からのサプライズ。彼の誕生日を特定したゲンが主体となり、遠征中に建てておいた天文台を贈ったのだった。
 二枚のレンズを組み合わせた望遠鏡が設置され、千空は言葉にこそしなかったがこの贈り物を大変気に入った様子で、貴重な睡眠時間を充てて一人天体観測を楽しんだ。きっと、今後も習慣化するのだろう。
 目的もないまま望遠鏡を覗き込み、3700年前と変わらず在る惑星を見つけて宇宙を想う。いつか必ず、この手が届くことを信じて。
 そんな彼を、遠く木の陰から見つめる人物がいた。

(…千空…)

 彼女、ミカゲが頭の中で名を呼びうつむく。雪が積もる土、消えかけた足跡。
 いつからその名が熱を持ったのだろう。おかげで通り道である喉と口の中が痛くてたまらない。そんなものは錯覚だから、顔に出ることはない。けれど、きっと同じ錯覚の類である心。そこには確実に熱も痛みも蓄積されている。
 彼女の手には木彫りのお守りが握られていた。厚みのある長方形の中に、石神村のシンボルが刻まれている。上部の穴には紐が通され首から提げられるようになっていた。
 彼の誕生日が近いと聞いて、慌てて密かに彫ったもの。しかし完成後、急激に冷めてしまった。何故一人の村人だけが、追加で贈り物をする必要があるのだろう。誰かに止められた訳ではないと一度は思い直し、こうして足を運んだが、夜空を見上げる彼を前にして、やはり胸の奥が冷たくなるのを実感した。

(これが……これも全部、恋なのね)

 いつか母が耳打ちしてくれた笑顔の秘密。いつか父が母にだけ送った眼差しの正体。

(聞いていた通りで…でも全然足りてなかったわ、母様)

 名を呼ばれると嬉しくなる。目が合うと胸が温かくなる。あらゆる想いを捧げたい。
 名を呼ぶと苦しくなる。視界に入ると息が止まる。こんな想いを渡すなんてとんでもない。
 どちらも何て身勝手なのだろう。特別なたった一人を作り出すこの感情の両面を知って、彼女は真っ先にそう思ってしまった。
 何故なら、彼女の心が選んだ相手は"必要ない"と公言しているのだから。
 伴侶を見つけ、家族となるために恋愛感情は持たなくてもいい。別の近しい情さえあれば、きちんと信頼関係を築くことが出来る。彼女はそう信じていたし、そちら側へ進むのだろうと決めつけていた。
 それなのに。

(どうして好きになってしまったの。どうしてあの人を他の皆と同じにしておけなかったの)

 情けないと脳が判断したのだろうか。白い雪原がぼやけていた。

(あの人は…何事でも心から真剣に伝えれば、必ずまっすぐ向き合ってくれる。だけどこの気持ちに関しては、あの人にとってとても不本意なことで、増やしてはいけない負担だわ。結果が分かっているのにわざわざ言って、わざわざいやな思いをさせるなんて、そんなこと絶対あっては駄目…!)

 彼女の一番の望みは、皆が笑い合うこの日々が変わらず続くこと。恋心という名の凶器で壊してしまう未来など考えたくもない。

(大丈夫…あの人は大切な仲間。それは何があっても変わらない。この浮かれた時期を乗り越えればきっと…きっと元通りに出来る)

 皮膚に食い込む程にお守りを握りしめた。

(早く…燃やして終わりにしないと……)

 こんなものがなくても彼を案じる気持ちは間違いなく存在する。そしてそれは好意とは全く異なる場所から湧いた想いだと胸を張って言える。それで十分。

(戻ろう。超えるまでじっと待とう。そうよ、これが一番合理的なやり方なのよ…!)

 足跡も、雫が空けた穴も、あっという間に雪が埋めていく。心もこれと同じようになるだろう。雪の役割を果たすものが何か、今はまだ分からないけれど。
 力を抜き、お守りを空中に放す。重力に沿って落ちてから、紐の先で風に揺れた。
 ミカゲは足音を極限までひそめ、吊り橋を渡り、妹分が待つ家へと歩んでいった。

「……?」
(今、誰か…気のせいか?)

 彼女が偽りの笑顔を纏った瞬間、望む日々は粉々に砕けてしまうというのに。



  

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