7.興味

 ゴルベーザは魔導船を使うことは考えていなかった。今は出来るだけ身を潜め、アンヘルをどこかの町へ送り届けることを最優先とし、月の異変は伏せることにした。
 森の終わりが見える。地図に載ることの無いこの小さな孤島は、結界の影響か、あるいは亡霊の強すぎる妄執を避けてか、魔物は生息していないようだった。
 陸地の先端。低い崖になっており、広く抜けた空から塩気を含んだ風が降りてくる。海を挟んだそう遠くない先に大陸の浜があった。
 アンヘルが息を呑んだ。ぽかんと口を開け、生まれて初めての景色を目の当たりにして、外套を握る小さな手はこれ以上ない程力がこもっていた。

「…これ、が……海…?」
「あぁ、そうだ」
「……本の中の…絵と同じ…!」

 アンヘルが駆けた。空を見上げ、ぐるりと一回転。どこまでも続く空を遮るものは無い。見渡す限りの青。独りでにうねり、白いしぶきを上げる海面。その身に浴びたことのない潮風。
 ゴルベーザは彼女の"生"を強く実感した。

「ねぇ、海は本当に塩の味がするの?塩って、海の水から作るんでしょう?足が届かないぐらい、深いんだよね?」
「崖に近づくと危ないぞ」

 彼がアンヘルの横に並び、肩にそっと手を置いた。

「そなたの疑問は、そなた自身で確かめるのがよいだろう。少し、目を閉じてくれ」

 素直に従ったアンヘルを確認し、呪文の詠唱を始めた。足元の影がかすかにうごめき、次の瞬間、二人を呑み込もうと膨れ上がった。波に攫われるようにして、二人が姿を消す。
 程なく影に無事吐き出され、彼らは大陸の浜へと移動を終えた。

「な、何…!?」
「転移の術だ。もう開けて構わぬ」
「…!」

 目の前の光景が変わったことを知り、アンヘルの両目が再び丸くなった。すぐ先には白い砂浜が海面に向かって伸びていた。彼女は数歩進み、しゃがみ込んで砂をすくい上げ、感嘆の声を漏らした。

「…土と全然違う…」

 やがて彼女の目線は波打ち際で固定された。心地よい音を立てながら、寄せては引き、また寄せてを延々と繰り返している。隣に並んだゴルベーザを見上げた彼女の心境を察し、彼は促してやった。

「危険は無い。服が濡れぬよう、気を付けるのだ」
「うん…」

 一番波が近づく手前に立ち、海水に触れ、軽く舐め取る。驚いて跳ねる様子が微笑ましかった。

「からい…。海って、こんなにからいのね…」
「さぁ…もう行くぞ」
「……」
「先へ進めば、また新たなものに出会えるだろう。世界はこれだけではないのだから…」

 アンヘルがゴルベーザの瞳をじっと見つめ、一度うなずく。歩き出すと、少しも離れまいとして、小さな歩幅で後ろをついてくる。
 ゴルベーザにとっても初めての経験が続いていた。彼は彼女の歩みに合わせてやるように、自らの速度をずっと落とし、進んでいった。

*

 空の大きさ、遠くにそびえる山の高さ、川の広さといった何でもない自然の一つ一つにアンヘルは心動かされているようだった。彼女の挙動を見守り、その都度彼女を憐れむ小さな淀みが生まれていたが、それを越えて、ゴルベーザは己の判断が正しいものだったと安堵した。
 短い草が生える野原を進む。ずっと向こうに野生の草食動物が数頭固まって食事に没頭している。アンヘルはそれに釘付けになり、立ち止まってしばらく眺め続けていた。
 と、動物たちが一斉に顔を上げ、蜘蛛の子を散らすように方々へ駆けた。ゴルベーザが素早くアンヘルの前に立った。

「下がるのだ」
「え…?」
「魔物だ。早く」

 彼女が動いたのを見届け、前方へ向き直す。ゴブリンの亜種らしき魔物が二匹。ゴルベーザの姿を認め、真っ直ぐ走ってくる。

(倒すまでもないな)
「…サンダー!」

 破裂音と共に小さな稲妻が一筋、魔物の眼前へ落ちた。怯んだ魔物は体を反転させて慌てて逃げていく。影がなくなるまでゴルベーザはそれを睨みつけていたが、やがて警戒を解いて背を向けた。
 と。

「い…今の、魔法?」
「あぁ」
「すごい!あなた、雷の魔法が使えるのね。どうやって唱えたの?わたし、ファイアの魔法しか知らないの。ねぇ、もう一度見せて!」

 アンヘルが次々と言葉を繋いでいく。これまでのどの事象よりも興味を示し、興奮しているようだった。ゴルベーザは多少驚いた表情のまま、手の平の上に電気を帯びた魔力を顕現させてやる。彼女がまたはしゃいだ。

「わぁ〜…難しい魔法なんだよね」
「いいや、これも基礎の一つだ。そなたがファイアを扱えるのならば、習得に何の問題もないだろう」
「そうなんだ…」

 ぱりぱりと弾ける魔力を、アンヘルが何度も瞬きを繰り返しながら見入っている。またたく瞳と、爆ぜる花火がどこか似ているようだと思えた。

「……覚えるか?」
「うん…!本で読んだことはあるけど、一人じゃ上手く出来なかったの。他の魔法も使えるようになりたい」
「そうか、分かった。その願いならば、今叶えてやれるだろう」
「よかった…!」

 ほっと目を細めた彼女に、ゴルベーザの良心がわずかだけ痛む。しかし、聞き入れてやれる"やりたいこと"を引き出せたと、同時に胸を撫で下ろしていた。






- ナノ -