33.宣誓

 困難を乗り越え、二人を遮るものが無くなったたはずのゴルベーザとアンヘルだったが、新たな障害がすぐさま彼らを襲っていた。アンヘルが、正確には彼女の肉体だけが、次の町に立ち寄ることを激しく拒否したのだ。町の遠景が現れた途端、彼女は暗示にかけられたかのように腰を抜かし、制御の利かない恐怖心に支配されてしまった。
 原因はゴルベーザにあった。そもそもの衝突の始まりである慈善施設。信頼するはずの彼が手の平を返してそこに連れて行ってしまうのではと、彼女の深層意識は悲鳴を上げていた。諭す彼の言葉を理解しうなずきながらも涙の止まらない様子は痛ましいものであり、しかし物資は底を尽きかけているため素通りすることは出来なかった。

「ご、ごめんなさい…。でも…ど、どうしても、足が、動かないの…」
「そなたが謝ることではない。そなたを一度裏切ったのはこの私だ。すまぬ…」
「そうじゃない…!」
「あぁ、分かっている、分かっているとも」

 しっかりと抱きしめ背をごく軽い力で打ってやるうちに、少しずつ彼女の呼吸は正常のものへと戻っていった。

「落ち着いたか?」
「ん…」
「では、そのまま聞いてくれ。私は…そなたを絶対に離さない方法を持っている」
「絶対…?」
「あぁ。何故ならそれは呪術だからだ。そのようなものをそなたに施すなど考えたくもないのだが…今ばかりは、他にそなたに絶対を示す手立てが思いつかぬ…」
「……」
「本来は奴隷や捕虜を逃がさぬための烙印なのだ。軽蔑して構わぬ…私はゴルベーザの術でそなたを縛ろうとしている」
「ううん、そんなこと言わないで」

 アンヘルが彼と視線を交わすために身を起こした。

「その術、わたしにして。きっと、もう少し経ったらわたしの体、またわたしの言う通りに動くようになると思う。でも、そんなの待てないから…早くミストの村に行って、侵略者のことを聞かなきゃ…!」
「……分かった。そなたの心と体の均衡が戻ればすぐに解く。だから少しだけ、こらえてくれ…」

 力強く首を縦に振る彼女を見届け、ゴルベーザはその手を取った。

「先に言うが、そなたと術者の私の間に一定以上の距離が出来ると烙印が痛む仕組みとなっている。その距離は町の規模より確実に狭い」
「うん…」
「痛みなど決して起こさせないと誓おう。さぁ、目を閉じてくれ」

 アンヘルが従う。片手を握り、顎に軽く指を添えこちらを見上げるように調整した。同時に呪文を唱え始める。魔力が黒く、湿った外道と呼ぶべき質へ変化を始め、それを初めて感じ取る彼女は不安げに繋いだ手に力を込めた。

「…もう少しの辛抱だ…口を」

 く、と顎を押し、唇を開かせた。無防備にじっと動きを止める姿に、潜む赤い舌に、背筋をついと細くくすぐるものが這った気分になった。
 ぎゅっと一度合図を送り、ゴルベーザが傾く。何も知らずに待つその唇の奥に侵入し、赤をたっぷりと舐め上げた。

「っ!?」

 労うため、そして術が完成したことを伝えるために頭を撫でる。

「……これも先に言うべきだったか、すまぬ」
「……」
「言い訳になるが…正しい手順は血を交わすのだ。だがそなたを傷つける訳にはいかんだろう」
「ん…あ、ありがとう…」

 異変を察し、再び彼女が震えた。不自然に熱を持った右手を見やる。流曲線が重なる対称的な印が生まれていた。赤黒い色は時間の経過した血を連想させる。息を呑んだ。

「成功だな」
「…熱い…」
「じき落ち着くだろう。続くようなら言ってくれ」

 端切れを裂き、印を隠すように巻いてやった。アンヘルが深呼吸を繰り返してから、ゆっくりと腰を上げる。両足に力は入り、ゴルベーザに支えてもらいながらも立つことが出来ていた。彼の誠意と、やや歪んだ、それでも可視の"絶対"を見せつけられ、彼女の肉体もようやく納得したようだった。

*

 町での収穫は非常に大きいものだった。砂漠の国ダムシアンの領地内に隕石が落ちたという情報が入ったのだ。月での事件も始まりは流星だった。侵略者がこの青き星をとうとう探し当てたに違いない。
 アンヘルも彼の態度から勘づいていたが、言われた通り、全ての用事を済ませて宿泊部屋で二人きりになるまで騒がずに待った。途中の別行動の間も、しきりに布の上から印を撫でていたものの、落ち着いて振る舞えた。
 食事と湯浴みを終えた二人は買い込んだ品物を整理しながら会話を続けていた。

「この星はどうなってしまうの…?」
「分からぬ。だが、かつて人々は力を束ね、悪を退けたのだ。そう簡単に侵略者に明け渡したりせぬよ。我々も出来ることをしよう」
「うん…!」
「港町から各地への船便が多く出ていると聞いた。私がいた頃より格段に航路が増えているようだ。それに乗れば一気にミストの村に近づく」

 アンヘルがこくりと一つうなずいた。それからは作業に集中し荷をまとめていく。ポーションやフェニックスの尾といった道具類は取り出しやすいよう小分けにして装備する。食材と調理器具は鞄の底へ。素材を換金した分場所が空いたので、しばらく使わないであろうアクセサリー類をまとめて詰めた。
 整頓が完了し、アンヘルが満足そうに大きく伸びた。まだ残りを片付けるゴルベーザを何とはなしに眺め、それから自分の手元に視線を移す。彼が巻いてくれた端切れに指先を置き、その後しゅるりと解いた。
 赤黒い紋様。あれから痛むどころか熱すら持っていない。一人で買い出しを済ませる折に探し当てた慈善施設。流石に足は止まったが、刻まれた呪いに意識を向ける前から彼を信じる心は確かに存在し、それをしっかりと肯定することが出来た。

「…ねぇ、セオドール」

 真名を呼ばれ、思わず彼ははっと振り返る。ベッドの縁に座ったアンヘルが薄く微笑みながら、紋様が見えるよう手の甲を向けていた。

「これ、解いてほしいの」
「…よいのか?無理をする必要はないのだぞ」
「うん、もう大丈夫。こんな力であなたとつながるのは…嫌だなって思えたから」
「そうか…分かった。あぁ、そのままでよい」

 立ち上がろうとした彼女を声で制し、代わりにゴルベーザがその前へ跪いた。恭しく丁寧に右手を取り上げるその所作に、彼女は意識外に頬を淡く赤らめた。
 丸ごと覆い込み、解呪の言霊を呟いた。あの熱が宿り、そして引いていく。円を描いて動く隙間を覗くと紋様はすでに消え去っており、アンヘルは感嘆の声を漏らしていた。

「すごいね…」
「熱や痛みは残っていないか?」
「ん、ありがとう」

 撫でるのをやめ、ゴルベーザは指先同士を触れ合わせるような持ち方に変えた。純真な瞳で小首をかしげる彼女をちらと一度見上げてから、再びうつむいて背を丸めていく。アンヘルの神経は末端部位に与えられた他者の新たな温もりを脳に届け、脳は全身の熱をかっと上昇させた。

「…これを新たな誓いとさせてくれ」
「えっ!?あ、う、うん!」

 めずらしくうろたえる彼女を見て、ゴルベーザにも今さら羞恥心が募り、顔を逸らす。

「……王子様みたいだった…」
「い、いや…その…どう見ても野獣だろう」
「ヤジュウ?…獣のこと?どうして?」
「な、何でもない…」

 わたわたと二人で恥じ入る。そのうちアンヘルが目を閉じて鼓動を落ち着かせ、勢いよく彼の左手を取り上げた。

「わ、わたしもするね!」
「む…!?」

 何を、と聞き返す前に、小さな唇が厚い皮膚に吸いついていた。何とも可愛らしい音を立て、うっとりと瞳を細めたアンヘルが達成感に溢れた表情を作る。褒めてくれ、と言わんばかりの視線を送られて、ゴルベーザには羞恥よりも慈しみの衝動が生まれていた。

「わたしもあなたのこと、離さないからね」
「あぁ…ありがとう、アンヘル。とても嬉しいぞ…」

 両腕を広げた彼女を希望通り包み込む。頬ずりを繰り返され、彼はそれに応えるように何度も抱擁の力を強めては愛しさにため息をついていた。






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