31.真名

「アンヘル……ありがとう……」
「うん…」

 涙と悔恨の感情を全て流し終え、ゴルベーザが静かに顔を上げた。

「本当に…こんな私で良いのか…?こんな…弱く、そなたを悲しませた男で…」

 心にもない彼の卑下の言葉に、アンヘルがむっと眉を吊り上げて反論する。

「わたしはあなたがいいの!さっきからずっとそうお願いしてるのに、そんなにわたしのこと、信じてくれないの?」

 とうとう機嫌を損ね、そっぽを向いてしまった少女に男は狼狽する。罪という殻を隠れ蓑にする生き方は、少なくとも彼女の前では止めなければならない。やっとそう思い至れたはずなのだが。
 すんと鼻を鳴らした音を耳にして、ゴルベーザはいよいよ焦った。

「む、無論そなたを信じている。そなたはこんなにも私を想ってくれた…それがこの上なく嬉しい…」
「……」
「だが…その…私には、誰かに願われた経験が無いのだ。情けないが、何が最善なのか、まだ上手く振る舞うことが出来ぬのだ、すまぬ…」
「ん、そっか…。そういえば、わたしもよく分からない…わたし、あなたにお願いしてばかり。そうだ、ねぇ、あなたもわたしにお願いしてみて?」
「私がか?」
「うん。わたし、あなたにたくさんのこと、教えてもらったし、叶えてもらった。わたしもあなたのお願い、叶えたいの」

 腕の中のアンヘルが微笑んだ。高く鳴る鼓動。しっとりと吸いつくような柔い頬に手の平を撫でつければ、より瞳を細めてすり寄ってくる。これ以上の幸福があろうか。そこまで考えて、彼の胸の中に一つの単語が浮かび上がった。

(……そうだな)

 小さくうなずく。錠を施し、思い出の中に佇ませていた朽ちかけの扉。彼女のため、そして同じく自分のために、今一度開こう。

「…名を…呼んでほしい」
「名前…?…ん……え、と………ゴル、ベーザ…?」

 彼は緩く首を振った。

「いいや。私の本当の名は……セオドールという」
「!!」

 もう一つの告白。しかしそれは痛みを伴うものではなく、彼女をその扉の中へ招き入れる、この上ない尊い鍵。

「セオドール!」

 アンヘルがくしゃりと顔を綻ばせて飛びついた。全身で喜びを表現し、瞳を輝かせ、繰り返し繰り返し彼の真名を紡いでいく。その度に彼は、その澄んだ美しい声が魂の奥底に積み重なり、己の存在が清められていく思いを味わった。

「セオドール、セオドール!とてもきれいな名前!とてもあなたに似合ってる!」
「そう…なのか?」
「うん!」
「そうか…」
「セオドール…これからも、あなたのそばにいてもいい…?」
「あぁ。私も、そなたに隣にいてほしい」
「嬉しい…!ありがとう、大好きだよ」

 アンヘルが動く。おぼろげな景色が一層陰る。そのことに気づくと同時に唇に柔らかなものが当たっていた。再び彼女が視界に入る。何をされたのか頭が理解するより先に、体の方が反応を示していた。
 口を薄く開けて、移動する途中の手はそのまま止まり、彼が呆けた表情になったのを見て、アンヘルは居心地が悪そうにまごつく。

「……す、好きな人同士はこうするって…え、えっと…だめだった…?」
「…!」

 返事は出来ず、しかし何とかわずかでも動いて否定した。顔中に熱が集まり、彼は思わず口元を覆う。愛情を示される行為が、たったこれだけなのにここまで胸に深く刺さるとは。

「やっぱり、嫌だった…?」
「そ、そうではない…!」

 ごほんと一つ咳払い。

「…幸せを噛み締めていただけだ」
「そっか。じゃ、じゃあ、えっとね…あなたからも、してほしいな…」
「あぁ、いいとも…」

 淀まず答えた自分に少しだけ驚いた。同時に喜びも覚えていた。
 頬にかかった横髪を耳にかけ、そのまま後頭部に差し入れ固定する。不安を含んだ両目が伏せられたのを見届け、息を吸い、動いた。
 初めは、本当にただの親心だった。この手で育ててやれなかった弟の幻影を重ね、成長を見届けることで、この身に巣喰う罪の意識を少しでも減らすことが出来ればと、そんな身勝手な期待を押しつけた時期もあった。
 だがそのような浅ましい欲望はすぐに消え去った。彼女と共に過ごすうちに多くの感情が生まれ、混ざり、小さく小さく圧し固まって、それはいつしか特別な甘い痛みを発する棘となり、心臓に深く打ち込まれていた。

「んっ…」
「……」
「……んん………っふぁ」

 何故か妙に呼吸を乱したアンヘルと視線が合う。彼は不思議に思ったが、やがてその理由に気づき、ふと笑みを零していた。

「息を止めていたのか?」
「え?だ、だって………あ、そっか…」

 喉奥でくつくつと笑う音が聞こえ、彼女は真っ赤になって恥じる。

「だって、初めてなんだもの…!」
「フフ…」
「わ、笑わないで…次はちゃんとするから…!」
「そうか」
「だから、その、もう一回…」

 逞しい二の腕に手を添え、アンヘルがおずおずと切なげな眼差しを送った。どの時よりも近い距離でじっと長く見つめ合う。今、という言葉が互いの頭によぎり、これが心を通じ合わせることなのかと、ゆっくりと瞼を下ろしてもうわずかだけ近づいた。






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