27.悪夢

(…ここは…どこだ…?……!!)

 視線を落とした先には漆黒の左手。禍々しい意匠の籠手が己の意思に合わせて蠢く。
 "毒虫"の鎧を纏っていると知ったと同時に彼は殺気を受けた。顔を上げれば闇の中に輝く対極の白銀。

(セシル…!?)
「ゴルベーザ、僕はお前を許さない!」

 一喝、疾走。有無を言わせない剣筋が走り、咄嗟に黒で塗り固められた腕でそれを受け止めた。重い衝撃が全身を通り抜け、次の動作をしばし封じられる。獲物を弾かれた聖騎士はその間に再び構えを取った。
 籠手が画面いっぱいに映り、魔力が手の内に集まる。

(!?)

 放たれる雷撃。駆けた聖騎士はそれと衝突し、勢い負けて吹っ飛ぶ。がしゃり、がしゃりと規則的かつ無機質な足音が、おそらく硬質の床であろう真っ黒な空間に響く。呪文を唱えた覚えも、歩みを進めたつもりもないはずなのに。

「くっ…負けは、しない…!お前の野望は必ず止めてみせる!」
(セシル、違う!私はもうお前と戦うつもりはない!)

 声が出ない。唇が開きすらしない。聖騎士が三たび地を蹴り斬りかかった。彼はその意思と頭の中の言葉とは裏腹に、応戦を続け黒魔法を放っている。何度でも立ち上がる聖騎士を、少しずつ痛みが蓄積していく彼自身を、止められない。

(セシル、やめてくれ!剣を下ろしてくれ!)
「ゴルベーザ…っ!」
(お前と戦いたくない!お前を傷つける過ちはもう重ねたくない!)
「ゴルベーザ!!」
(私はっ…"ゴルベーザ"では…っ!)

 本当の"私"など、誰にも届きはしない。この十数年間幾度となく味わい、そして開放されたと思い込んでいた地獄の苦しみ。
 爆発が起こり、聖騎士がついに完全に体を地に伏せた。荒い息遣いが耳に入る。彼の足は聖騎士の隣まで歩み、無慈悲に踏みつけながら仰向けへと反転させていた。

「はっ…はっ……く…」
「……」

 漆黒の籠手が長剣を拾い上げる。彼の意識が戦慄する。

(い、嫌だ!やめてくれ!)

 破損した鎧の合間から覗くそこ…心臓の真上を狙って切っ先が動いた。叫ぶ。脳の神経は肉体と繋がらない。
 聖騎士は…彼の唯一の肉親である弟、セシルは血と泥にまみれながらも気高い眼差しを向けていた。ただし、その瞳には焔が宿っている。怒りと憎しみと、そして何より侮蔑。闇の力に堕ち、魂を悪魔へと明け渡した兄を家族などと認めない。そう言っている。

「……兄さん」
(!!)
「あなたは、僕が憎いんでしょう?」
(っ違う!!)

 刃が落ちる。暗転する世界。肉を貫いた感触は無く、彼は突然訪れた静寂に五感を奪われた。

(……憎んでなど…いるものか…。セシル、私を許さなくていい…だから、せめて、この想いだけは……受け取ってくれまいか…)

 ぴく、と初めて肉体が反応を示した。瞼だった。続けて全身が震え出す。まるで呪縛が破れたかのように。
 おそるおそる瞳を開く。細い足先が視界に入った。セシルのものではない。もっと小さく、もっと細い、これは女性の、少女の。
 どくんと鼓動が跳ねた。
 横たわった少女の胸には先程彼が手にした剣が突き立てられ。流れ続ける鮮血。またたく間に彼の元へ到達する。光の消えた瞳が明後日の方向を眺めていた。
 少女の名は、アンヘル。

「あああアあアアあああアッ!!」

 慟哭が闇に木霊した。

*

「きゃっ!」

 うなされるゴルベーザを心配しながら見守っていたアンヘルは、ついに上がった悲鳴に驚いて尻もちをついた。声の主、ゴルベーザが飛び起きて激しく肩を上下させる。

「はぁっ…はぁっ…はぁっ…!」

 ばっと両手を確認する。浅黒い素肌。薄い寝具が掛かった下半身。少なくとも全てを塗り潰す暗黒の中ではない。真夜中の静寂は荒い呼吸と乱れ打つ鼓動に打ち消され、しかし孤独の痛みをより鮮明にさせていた。
 悪夢を見ていた。これまでのどんなものよりも残酷で、耐え難い仕打ちだった。

「……う、あ……」

 嘔吐感がせり上がり、ゴルベーザが背を丸めてむせ込んだ。口の中に酸の味が広がり、がちがちと歯を鳴らす。
 不意に、彼の背に小さな温もりが灯った。

「!」
「…大丈夫…?」

 アンヘルが小さな声でたずね、それから円を描くように優しく撫で始めた。
 急速に引く嘔吐感。温もりの動きに合わせて呼吸と心音が少しずつ整っていく。まるで発作が治まっていくかのように。彼女もそれが分かっているのだろう。彼が完全に落ち着くまで、黙って根気強く撫で続けた。
 ぐたりと弛緩する体。アンヘルがそっと離れ、正面へ回る。一つのごくごく小さな光を顕現させ、二人の頭上へと置いて、互いの顔が判別出来る仄かな明るさとなった。

「怖い夢を見たの…?」
「……」
「えっと……その…」

 いくらかためらった後、アンヘルの腕が再び伸びる。膝立ちとなり、深くうつむいたゴルベーザの頭に触れていた。幾度も自身にしてもらったあのように、髪の流れに沿って手の平を滑らせていく。

「……"大丈夫よ"」
「…!」
「"夢は夢…目が覚めればみんな元通り。だから、怖いことなんてないわ"…」

 誰かの言葉をそのまま真似た口調。けれど、そこに乗る感情は間違いなく彼女のもので。ゴルベーザは視界が滲んでいくのを他人事のように眺めながら、ほとんど呆然と小さな温もりを受けていた。
 やがて、示し合わすこともないまま二人が見つめ合う。同じ高さの目線が交わる。アンヘルがぎこちなくではあるが、微笑んだ。

「もう、怖くない?」
「……世話をかけたな」

 背を向けようとしたゴルベーザの外套がとっさに掴まれた。

「待って!あ、あのね…こんな時に言うなんて、本当はだめだって、分かっているんだけど…どうしても、聞いてほしいことがあるの…」
「……そうか。私も、話がある」
「えっ…う、うん、分かった。わたしからでいい…?」
「あぁ」
「ありがとう。…あの、その…」
「……」
「あなたに…謝りたいの…」

 声量に呼応して、頭上のかすかな照明を力を失っていく。アンヘルは一度うつむきぎゅっと両手を胸の前で握りしめてから、勢いをつけて顔を上げる。

「わたし、あなたが言ったこと、何も分かってなかった。やっとそれに気づいたの」

 再び灯る光。ゴルベーザを見つめる彼女の両目には、涙が浮かんでいた。






- ナノ -