26.雨宿
「……ん、冷た……雨?」
アンヘルが言い終わるや否や、灰色の空からぱたぱたと雫が落ちてきた。すぐに粒と呼べない大降りになり、彼女たちは急いで付近で一番大きな木の元へ駆けた。
しかし、枝や葉の合間からぼとぼとといくらでも滴り流れてくる。髪や服を濡らしたアンヘルが何度も顔を拭う。その様子を見ていたゴルベーザは外套を大きく広げ、彼女をその中へ入れてやった。
「あ、ありがとう」
「……」
「…えっと…あっそうだ!あのね、雨が降ったら試してみたかったことがあったの」
彼女は利き腕を伸ばして空を指差し、二人分の頭上を覆うように大きく円を描いた。始点に指先が再び重なった時、その内側に魔力が顕現する。薄い膜のような半透明のそれは物理的に雨粒を遮り、結果これ以上濡れ鼠にならなくて済むようだった。
「やった、上手く出来た」
「これは…?」
「プロテスとかシェルってあんな感じの壁が守ってくれるでしょう?他のことにも使えたらいいなって」
「…大したものだ」
「!」
アンヘルの表情がぱっと明るくなった。ただし、彼はもう正面を向いていて視線が合うことはなかったが。
「この雨は当分止まぬ。今のうちに寝床を探すぞ」
「うん!」
それでも呟かれた感嘆がよほど嬉しかったのだろう。アンヘルは目の前の外套をしっかと握り、何度も遠い横顔を見上げながら、上機嫌な様子で横についていった。
*
運良く雨風をしのげる洞穴が見つかり、ゴルベーザたちはその奥へと避難した。かつて居た獣の食事の跡であろう骨が散らばっていたが、風化が始まっているため安全だと判断して荷を広げた。
火をおこし、間に不自然とも表現出来そうな距離を置いて座り、黙って体を暖める。盗み見るよう窺えば、両腕で己を抱いて縮まるアンヘルがあった。いくら障壁で雨を弾いたといっても完璧ではなく、体温が奪われたことに変わりはない。この場へ吹き込む冷たい風も相まって、奥歯を鳴らさんばかりに震える彼女が不憫だった。
ゴルベーザは長く躊躇うが、ついに決める。
「……アンヘル、私の前に座りなさい。風避けぐらいにはなるだろう」
「え、いいの…?」
「あぁ」
「う、うん…!」
アンヘルが立ち、一歩を踏み出す。しかし、まだ濡れたままの靴底が足元の小さな岩を捉えきれず、ぐらりと傾いた。
「わっ…」
「…!!」
咄嗟に腕を掴み、自分の方へと引いていた。アンヘルがゴルベーザに重なるように倒れ込む。衝撃を伝えないよう強く抱き、彼は地面へ投げ出された。同時にどっと汗が噴き出す。
間に合わず、彼女が炎の中へ突っ込んでいれば。想像するより先に背筋が凍った。
「き…気をつけてくれ…」
「ご、ごめんなさい…!」
脳に十分酸素を行き渡らせ、ゴルベーザが盛大に息をはき出した。心臓が左胸の奥でやかましく喚いているのが分かる。ぐたりと脱力すれば、重みが一層感じられた。妙な充足感と共に違和感。
(……!な、何を暢気に構えている!?)
「アンヘル、離れなさい…!」
両肩を押しやれば、彼女は大きく首を振って抵抗を始めた。
「い、嫌だよ…また寒くなる…!」
「な…」
「前に来ていいって言った」
「それは"座る"だろう…!?」
「じゃあちゃんと座るから…!」
「……」
再びため息をつき、ゴルベーザが降参の体勢を取った。ようやく起き上がることを許され、居心地悪くがりがりと頭をかきむしる。
空気が動く。アンヘルの細い両腕がゴルベーザの胴を包んでいた。まさかと目を見張ったが、否が応でも伝わる体温に、全身の皮膚が過剰と言える程の反応を示す。取り込みすぎた酸素が眩暈を起こさせたのか。味わったことの無い症状だった。
「は、離れてくれ…約束が違う」
「座ってるよ」
「そういう問題ではない…!」
「お願い、寒いの…すごく、怖い…」
「っ」
「今だけでいいから…お願い…」
潤んだ瞳で見上げられ、ゴルベーザは勢いをつけて顔を背ける。アンヘルは一度すんと鼻をすすり、そのまま頬を硬い胸板へ押し当てた。
(…聞かないでくれ…!)
この乱れる鼓動を。
(そんな目で見ないでくれ…どうあるべきか、見失ってしまう…!)
受け入れることも拒むことも出来なかった。ただただ彼女が暖を取る手段であれと、相反する思考のどちらにも言い訳を投げ続けて。
ぎゅ、と抱きしめる力を強めれば、ゴルベーザの肩が怯えるように跳ねた。彼は違う。彼は人肌の温もりを与えられることを良く思わない。アンヘルはそう解釈し、どうしようもなく悲しくなった。
(本当は…わたしと手をつなぐのも、頭をなでるのも、ずっと嫌だったの…?それとも、もう嫌になってしまったの…?)
考えるだけで、全てが止まってしまいそうな痛みが生まれていた。しかし、それでも命を保つための臓器は一定の速度を保ったまま内で稼働し続けている。
(……あれ…これ、わたしの音じゃない…?)
一度気づけば理解するのは簡単だった。これは彼の音だ。立派な体躯に相応しい力強い旋律。それが鼓膜を通ってアンヘルの中に届き、彼女のものと一緒に鳴っている。その間隔が二人で揃ったような気分になった。
(どきどきしてる…?わたしと同じ…?…嬉しい)
痛みはいつしか取り払われ、彼女はじっと彼の鼓動に耳を澄ませていた。とろりと心が熱を帯び、疲れ切った肉体は睡眠を欲して瞼を重くする。
(よかった…嬉しい…)
意識を手放す寸前まで頭の中でそう繰り返しながら、アンヘルは静かに眠りについた。
それを把握したゴルベーザがようやく胸の中の彼女に目をやった。生きた心地がしないとさえ思ってしまうひと時だった。
(……動かせば起こしてしまう。あの日から眠りが明らかに浅い…)
そこまで考えて、彼の口からは自嘲の笑い声が漏れ出ていた。
(まだ取り繕うというのか。私はもう、彼女を保護する資格を失ったというのに)
ぱちんと火の中の枝が弾ける。
(いや…きっとまだ、彼女の中の私は罪人と結びついていない。"ゴルベーザ"がこの星にどのような厄災をもたらしたか知らぬだけだ。だからこうして身を委ねてくれている…)
ぎりぎりの一本でかろうじて繋がっている最後の絆。彼はそれまでもが切れてしまうことをひどく恐れている。これ以上は、これだけは。
(私の罪を知れば、そなたは二度と私に笑いかけてくれぬだろう。それが何より恐ろしい…。そなたは私の覚悟をあまりにもあっけなく砕いたのだ、アンヘル…)
償いのために、どんな責め苦も耐えると誓って故郷の地に降り立ったはずだった。にも関わらず、彼女の存在がこれ程までに大きくなってしまったのは何がきっかけだったのか。
笑顔を向けられた時?孤島から連れ出そうと決意した時?幼い弟を重ねた時?その幻影が見えなくなった時?初めて手を繋いだ時?偏見から庇われた時?切なさを孕んだ眼差しで見つめられた時?
あぁ、一瞬でこれだけ浮かぶのだ。全てに決まっている。
(彼女を…自由にしてやらねば…)
結界から解き放たれても尚、罪人の慰めのために、そうとは知らされず囚われていた一人の少女を。
今ならまだ、彼女が抱く幻想の"あなた"を壊さずに済む。
そうやってゴルベーザは独り逃げ続ける。背負うはずの罪からも、守りたいと願ったはずのアンヘルからも。
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