この気持ちはまだ秘密のままで

 好きな人が出来ました。こんな時に、です。
 どうして今なんでしょう。……あぁそうか、そうじゃなきゃ、あなたと出会えなかったからだ…。

*

「いい天気ですねぇ、セオドア様…」
「はい」
「追われてるのが嘘みたい…」
「……」
「あっ…すみません、不謹慎ですね…」
「いえ、そうではなくて」

 ぴぴぴ。ぼくたちの頭上から小鳥のさえずりが聞こえてくる。
 ミストの村へ続く最後の森の昼下がり。険しい崖を越え、バロンからの追っ手もおそらく振り切った。

「ここを降りたんだなって、やっと実感出来て」
「ふふ、頑張りましたねぇ、私たち」
「はい」

 隣に腰掛けたエルダさんが笑う。この笑顔に何度も励まされてきた。
 彼女は強い人だった。ぼくたちの中で一番旅慣れていない女の人なのに、いつも笑って前向きな言葉しか言わない。そして裏表なく、変な遠慮もせず、王子であるぼくを普通の年下の男の子として扱った。
 初めは少し悔しくて、それからとても有り難いことだと分かって、今は…今は、変わってほしいと思う。

「剣士さんもまだ戻ってこなさそうだし、もう少し休憩させてもらいましょうか」
「そうですね」

 言い淀まず返答したぼくに安心したのか、エルダさんは前を向いてからふうと深く息をつき、それきり黙った。
 やっぱり…かなり疲れているみたいだ。見回りに行った、エルダさんが"剣士さん"と呼ぶあの人がぼくに投げかけた視線の意味をもう一度思い起こす。今は、ぼくが彼女を守るんだ。
 ぴぴぴ。ぼくの意気込みとは裏腹に、鳥が変わらずきれいな声で鳴いている。
 …バロンは…母さんや父さんや、シドおじさんたちは無事だろうか。…いや、きっと隣の彼女ならこう言うはずだ。"絶対に大丈夫です。だから、信じて私たちも頑張りましょう"って。

「…エルダさん、喉渇いてませんか?水は…」

 振り向き、息が止まった。深く深くうつむいた頭部。草の上に投げ出された左手。

「エルダさっ…!?」

 背を預けていた土壁から跳ね起き、ぼくは四つん這いになって覗き込む。そして、止まっていた息が全部口から出ていき、引いていた血の気がいっぺんに全身に戻っていった。

「ね、眠ってるだけか…良かった…」

 もう一度はっとして唇を押さえたけれど、彼女が目を覚ますことはなさそうだった。体勢を崩す程深く意識は沈み、規則正しい寝息がここまで届いている。
 風が吹き、彼女の前髪が揺れて目元が晒された。どきりと体中を駆ける身震い。睫毛は木漏れ日にきらめき、唇は無防備に薄く開いていて…全身まできらきら光を放っているように見えるのは、ぼくただ一人だけなんだろう。
 ごくりと唾が喉を通ったのが分かった。どきどきして、頬や耳が熱くなって、背中が汗ばんでいる。だけど、これは、言葉では矛盾しているけれど、安らかであたたかい気持ち。魔物と対峙したり、危険な道を進んだりする時と対極の心臓の音だ。
 ぼくはエルダさんに見惚れていた。母親以外の女の人の寝顔を間近で見るのは初めてで、そもそも相手が他ならぬ彼女な訳で。
 こんな時なのに、と思う。だけどどうやっても止められなかった。悪夢にうなされ飛び起きたぼくのそばで心配そうに見つめる顔を、そしてぼくを安心させるために浮かべた微笑みを、どうやっても忘れられそうにないんだ。
 鼓動がさらに早鐘を打つ。やめておけ。でも今なら。ぐるぐると二つの言葉が頭の中を駆け巡る。
 そろりと上げた手が、また戻っていく。それを三度繰り返して、ぼくは再び唾を飲み込んでいた。
 さらに伸びる腕。その手の行く先は、エルダさんのそれ。寸前で最後のためらい。次に気づけば重なっていた。

「っ…」

 胸の中がぎゅっと収縮する。握った彼女の手の平は柔らかく、温かく、どこかしっとりとしていた。…あぁ、それはぼくの緊張のせいか。
 そっと力を強め、少しの間を置いてから、ぼくは眠る彼女に向かって話しかけていた。

「…エルダさん…あなたはきっと…ぼくのために、とても無理をしてくれているんだと思います。そんな風にさせてごめんなさい…でも、必ず、強くなって、あなたを守れるようになってみせます…!」

 あなたはただ漠然と"騎士になりたい"と考えていたぼくを変えてくれた。あなたと、あなたを通じて知った人々の日常を守りたいと思うようになった。
 エルダさん、あなたが好きです。あなたを好きになって、本当に良かったと思います。この恋にどう決着がつくかは分からないけれど、少なくとも、抱いたこの想いを後悔することはないでしょう。

「…こんなの…卑怯だって分かってます。でも……でも、もう少しだけ頑張れるように…今だけ…」

 言い訳を口にして、目を覚まさない彼女に向かって許しを請う。本人に隠れてこんなことをするのはぼくだけなのかな…それとも、片想いの人は皆するのかな…。
 もう少しだけ、あともう少しだけ。心の中で何度もそう唱えながら、ぼくはエルダさんの寝顔と体温を記憶に刻み込み、決意を新たにした。






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