6.

「…よいぞ」
「はい、失礼します」

 一言断り、仕切りの向こうに控えたディーナが顔を出した。ゴルベーザがローブの腰紐を結んでいるところだった。
 浴室横の一角。ソファに腰を下ろすゴルベーザの後ろに回り、ディーナは彼の髪の水分を丁寧に拭き取っていく。
 髪を梳かし、整え、ゆるくひとつにまとめる。香油の入った小瓶をサイドテーブルに置き、同時にクッションを用意すると、ゴルベーザが慣れた様子でそこに片手を乗せた。
 ディーナが香油を自身の手の平に落とし、体温をなじませてから彼の指先に塗り込んだ。刺激を与えながら全体へ広げていく。無言のまませっせと続け、彼女の額にわずかに汗が浮いた。
 太い骨張った指にディーナの細いそれが絡む。厚い皮は今日も柔らかく解れることはなさそうだ。

(本当に大きな手…私が幼子のように見えるわ)

 反対も終わらせ、次は足へ。屈んだディーナをしばらく見つめてから、ゴルベーザは気分が良さそうに目を閉じた。

「お前は怠惰を司る悪魔のようだ…自ら動く気を失せさせる」
「…ならば、この国の侍女全てが悪魔ということになりますね」
「ほう…」

 ゴルベーザは考える。ずっとディーナを異常に気を回し、世話を焼く女だと思っていた。彼の行動や好みを驚く精度で把握し、望む事柄を口にするより先に差し出す。彼にとってそれは尋常でない周到さだ。しかし。

「やはり、これがお前たちの常なのか。貴族が増長する訳だ」
「……」
「悪魔の化身を生み出したあれらの罪は重い…そうは思わぬか?」
「さぁ…私は生み出された側なので、よく分かりませんわ」

 ディーナの返しにゴルベーザがくつくつと笑った。

「ずいぶん神経が太くなったようだな。私の言葉にいちいち詰まっていた女と同一とは思えぬぞ」
「あ、あの時は…その」

 ディーナが目を泳がせた。動揺してゴルベーザの足指をきゅっと掴んでしまう。彼の眉がわずかに動き、瞳が開かれた。

「今のようにお声を掛けていただくことが少なかったもので…どんなお話をすればよいか、悩んでおりました」
「私を恐れていたか?」
「それは…そう、ですね。否定すれば嘘になりますが…ほんの始めだけですわ」
「そうか」

 会話が途切れる。マッサージが一段落したところで、今度はディーナが切り出した。

「あの、ご主人様」
「何だ」
「私にあなた様のお世話を任せていただきまして、ありがとうございます」
「…何を言い出す?」
「私、初めてお目にかかったあの時、あなた様が顔の傷跡を気にして下さったことが、本当に嬉しかったんです。それからずっとお尽くししたいと思っていましたけれど、最初はお掃除しかさせていただけなかったでしょう?」
「雇ったばかりの人間をいきなり横に置く方がどうかしている」
「はい。けれど、あなた様は私を認めて下さいました。今はこうやって…お体に触れることもお許し下さっています」
(…それはお前が私の術にこの上なく従順だからだ)

 不自然だと疑う程に、彼女への効き目は絶大だった。己の状況に疑問を持たないよう、思考を上から覆い尽くす術のはずなのに。ただ、ディーナという人格を形成する芯が相当強いということも、これまでの付き合いから彼は十分に理解していた。
 ゴルベーザが腕を伸ばす。ディーナはほとんど反射的に、自らをその方向へ差し出した。額に指が添えられる。
 そのまま動かなくなったゴルベーザに、彼女は困惑の色を向けた。

(……まぁ、よいだろう。態度が今と変わっても都合が悪い)

 今まで幾度も行ってきたように魔力を乗せた声色を吹き込もうと考えたが、彼は行動に移すのをやめた。

「…あ、の…」
「傷は残らなかったな。良いことだ」
「あ、はい、ありがとうございます…!」

 こうやって甘い言葉を聞かせておけば、術の効力も持つことだろう。
 ゴルベーザが立ち上がり、寝室へ移動した。サイドテーブルを片付けてディーナも続く。ベッド脇まで進んだところでゴルベーザが振り返って口を開く。

「ディーナよ。私がおらぬ間は出来るだけ自室から出るな。城外へ行くことも認めぬ」
「はい」
「何かあれば近衛兵長に伝えよ」
「かしこまりました。ご主人様、どうかお気をつけ下さいませ…!」
「あぁ」

 赤い翼の、ファブール遠征前日のことだった。






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