友と

 バロン城下町、城にほぼ隣接した邸宅地。その一画に、赤い翼の部隊長兼ハイウインド家当主の自宅があった。貴族の屋敷としては規模は小さく謹厳実直な造りだが、それでも家人一人には十分過ぎる広さである。当主、カイン・ハイウインドは家財の整頓を行い、かつて雇っていた使用人数名を呼び戻し、華やかさとは程遠くも不足の無い生活を送っていた。
 夕暮れ時、書斎。カインが唯一手を付けなかった場所である。それは目の前で熱心に本の内容を写し取る男に説得されたためであり、故に彼専用と言って差し支えない部屋となっていた。

「本ぐらいいくらでも持っていっていいぞ、セオドール」
「いいや…我が家は設備が整っていない。ここで保管するのが一番だ」
「そうなのか?お前のことだから、書庫の一つや二つ建てていると思っていた」
「…読書や研究にかまけ過ぎるとディーナが拗ねる」
「へえ。それなら連れてきてやればよかったんじゃないか」

 器用にペンを走らせながら喋っていたセオドールが手を止める。机の傍らに立つカインをわずかに見上げてから、再び紙面に視線を戻した。

「彼女はバロンに近づきたがらぬ。私含め、身元が明かされることを嫌がっているようだ」
「あぁ…」
「まぁ私がこうして堂々とうろついている方がよっぽど危ういがな。声で思い至りそうなものだが」
「顔を見ていないから確信はせんだろう。心配するな」

 カインが小窓の下へ歩む。カーテンを掴んで何度かはたいてから、錠を外して最大まで開いた。

「もう少し本格的に掃除した方がいいな…」
「ふむ、ならば私がやろう。宿代代わりだ」
「そうか?まぁ、それなら頼もうか」

 セオドールが軽く書斎を見渡した。落ち着いた色味の調度品は趣味が良く、蔵書数は決して多くないが、そのどれもが軍事やバロンに関する実用的なものである。代々この国に仕えてきたハイウインド家に相応しい知識の宝庫であった。

「あぁだが…次回でよいか?」
「ん?」
「素人が行うと本を傷めかねん。ディーナに頼んで手伝ってもらおうと思う」
「……」
「二人に増えるのは迷惑か?」
「いやそういう訳じゃないが。まぁいい、任せるからいいようにやってくれ」

 指に窓枠の埃が付いていたことに気づき、ふっと息で吹き飛ばしてから。

(嫁を連れ出す口実に使われた…のか?)

 カインが一人首を捻った。
 最近になってようやく理解し始めたが、この白銀の髪の大男、"セオドール"としての言葉は駆け引きや画策とは無縁なものらしい。一軍の将であった頃や先の厄災時はそういった手腕が全面に出ていたため、今でも裏を勘ぐってしまう。

「増えるのは結構だが、ここで変なことはするなよ」
「無論、細心の注意を払う。貴重な資料だからな」
「うーむ、下手に惚気るよりきつい返しだ」
「何の話だ」
「何も」

 カインが角に置かれた椅子を運び、どかりと座って足を組んだ。セオドールも目的の部分を写し終えたらしい。開いていた本を積み上げた山の一部とし、軽く肩を鳴らす。
 少しの間、沈黙。それを破ったのはカインだった。

「なぁ、一つ聞きたいんだが」
「何だ」
「昔…ゾットの塔で、皆の前でディーナを痛めつけたことがあっただろう」
「…!」
「あの時、自我はあったのか?」

 問いを受け、かつての"毒虫"は顔を伏せて机の木目をじっと見つめた。思いを馳せるという行為をせずともそこに映る、自身の罪。
 彼は静かに答えた。

「あぁ。あれは私の意思だった。そこから目を背けるわけにはいかぬ」
「…そうだな」
「だがディーナは…それでも私を信じてくれた。だから私は全てを取り戻すことが出来たのだ」

 瞳を細め、深くつく息。そうした彼を一瞥し、カインは背もたれに体重を掛けて椅子を傾けた。そのままゆらゆらと揺れながら。

「フッ、その時のディーナの様子を伝えて慰めてやろうと思ったが、いらん世話だったな」
「何…!?ど、どういう様だったのだ…!?」
「さてね」
「…頼む、教えてくれ。私の元を離れた彼女の姿を、私は何一つ知らぬのだ…」
「そう深刻になるなよ…。お前の言った通りさ。体調の優れないお前の心配だけしていた」
「そ、そうか…」

 がたがた。カインが立ち、粗雑な手つきで椅子を片付けていた。その動きをセオドールが意識外に追っている。
 小窓から風が吹き込んで、書斎の空気を洗っていく。街や城の喧噪から離れ、何とも穏やかな時間だった。すぐ向こうで大きく伸びをするあの部隊長も、それを求め執務を置き去りにして帰ってきたのだろう。

「ふあーあ。ここにいると眠くなってくるな」
「カイン」
「あ?」
「お前の見合いの話はどうなったのだ」
「何だよヤブヘビだな」
「…棒だろう?」
「蛇で合っている。別に何も無いさ。ほとんど会う前に断ったからな」
「それは少々不誠実ではないか…?」

 小脇に冊子を抱えたセオドールが眉をわずかにしかめ、カインの横を抜けながら批判する。しかし、当の本人は肩をすくめるばかりである。

「逆だ逆。会ってしまえば相手に悪い噂が立ちかねん」
「それは…確かにそうかもしれぬが…縁の始まりを真っ先に潰すのもどうなのだ」
「おいおい、お前までセシルと同じようになるのは勘弁してくれよ。あいつを除け者にする訳じゃないが、こういうことをずけずけ話せるのはお前の方なんだ」
「…分かった」

 地位、名声。望んだものではないが、それでも手にした以上相応に振る舞わなければならない。だからこそ、本棚と対峙し顔だけこちらを向くこの大男を、煩わしいもの一切を解放する類の友人としてありがたく思う。
 無表情の奥に透けて見える感情を笑い飛ばすように、空色の鎧を纏う聖竜騎士は黒の布地に包まれた背をばしりと叩いた。
 同じ闇を知る彼が幸福を掴んだことは、心から喜ばしい、救いの一つなのだから。

「心配するな、惚気話はいくらでも聞いてやるから」
「!な、何を言う…!?」
「話したくて仕方ないんだろう?」
「カイン!」
「ハハハ、楽しいな、本当に。こんな話はお前としか出来ないし、したこともなかった」

 とうとうセオドールが苦笑で唇の形を歪めるまで、カインは遠慮なくその広い背を叩き続けていた。





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ゆりあさんより頂きました、「毒虫と侍女その後 カインにぽろぽろ惚気るゴル兄さん」でした。
リクエストありがとうございました。




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