夫婦

「ディーナ、話がある」
「あ、はい」

 決して広くない家中を忙しなく動き回る彼女の隙を何とか見つけて呼び止め、セオドールが椅子に座るよう促した。曰く、この数日ふさぎ込んでいたせいで様々なことを蔑ろにしてしまっていたらしい。恥じる彼女を前に、何がどう普段より悪い状態なのか彼には全く分からなかったが。

「これからのことだ」
「…!」

 ディーナの体が強張る。

「セシルは我々がバロンで暮らすことを望んでいた。だが、私はお前の生活を一番優先すべきだと考える。お前の意見を聞かせてくれ」
「はい…。私はバロンに戻るつもりはございません。私の顔を知る者もまだ多いでしょう…そこから、あなた様のことまで知られてしまうかもしれません」
「…うむ」
「それに、何より、この村であなた様と共に暮らしていきたいと思います。きっと皆さんも喜んで下さいますわ」
「分かった。それから…もう一つ」

 セオドールがいくらか間を置いてから再び話し出した。

「昨晩言った通り…私は一人で月を出た。あそこには伯父が残っている。無論、私はここでお前と生きていくつもりだが、その報告も兼ねて一度戻らねばなら」
「私も連れていって下さいませ!」

 終わらないうちに向かいのディーナがばんと机を鳴らし、身を乗り出して声を上げた。その間髪入れない返答にセオドールは面食らう。

「あなた様が何とおっしゃろうと、絶対について参ります!こればかりはもう譲ることは出来ません!」
「あ、あぁ…そう頼むつもりだった」
「え?」
「伯父にお前を紹介したいのだ。お前を置いていくつもりは毛頭無い」
「あ…も、申し訳ございません…」

 先走った行動だったと気づき、彼女は顔を赤くして小さくなりながら席についた。セオドールが微笑む。

「数日後に赤い翼に拾ってもらう手はずになっている。一旦バロンでセシルたちに会い、それから月へ発とう」
「はい」
「早く村の者にも挨拶せねばならぬな」
「そうですね…。では、残りのお洗濯物を干して参りますので、それから村長のところへご案内します」
「あぁ、頼む」

 ディーナが足元のかごを持って立ち上がり、裏口へと歩いていった。それを見送り、セオドールは頬杖をついて瞳を閉じる。

(さて…一応言い訳じみた説明は考えてきたが…ディーナの話に合わせた方が良いだろうな)

 彼女は何と言ってこの村に住み着き、そのまま独り身で長い年月を過ごしたのだろうか。結局昨晩は聞けずじまいだった。

(あまり話したくないようだったが、改めて問うことにしよう…)

 うららかな日差しが窓から降り注ぎ、彼はどこを見つめるでもなく、ここには届かない家の裏手の様子を何とか探ろうと耳を澄ませていた。
 その穏やかな静寂を、重い一つの音が打ち破った。
 どんどんと入り口の戸が強く叩かれる。セオドールがはっと顔を上げた。続けて向こう側からこれもまた強い調子の声。老齢の女性のようだった。

「ディーナ、いるんだろう!昨日村に来た大男を知っているかい!?」
(!)
「ここに向かう姿を見たって人がいるんだ。悪いけど話を聞かせてもらうよ!」

 裏口へと顔をやる。ディーナはまだ気づいていないようで、姿も反応も無い。叩かれ続ける扉に視線を戻し、彼は覚悟を決めて腰を上げた。
 錠を開ける音が鳴り老婆はようやく手を止めたが、中から出てきた巨大な影に驚いて、飛び上がらんばかりの悲鳴が響いた。

「あ、あ、あんた、一晩中ここに居たっていうのかい…!?」
「…はい」

 低い返答を受け、彼女が一気に詰め寄る。

「あんたは一体誰なんだい?男女の何かしらにとやかく言うつもりはないけれど、あの子はこの村に来てからそんな素振りは一度だって見せなかったんだよ…!」

 気丈に自分を睨みつける老婆に対し、セオドールは深く頭を下げた後、両目を定めたまま言った。

「私は、ディーナの夫です」
「夫だって…!?」

 その単語を理解した彼女が変化を起こす。一度さっと青ざめ、激昂。

「い…今さらどの面下げて来たっていうんだ、このッ人でなし!」
「!?」
「あの子の苦労も知らないでよく夫だなんて口走れるもんだね!」
「っ…」
「村長!おやめ下さい!」
「ディーナ!?」

 騒ぎに気づいて外から玄関へ回ってきたのだろう。ディーナが空になったかごを放り出して二人の間に駆け込んできた。両腕を広げ、背後のセオドールをかばうようにして立ちはだかる。老婆はまだ興奮冷めやらず、矛先を彼女に向けた。

「お前さんもこんな男に何言いくるめられてんだい!この男は子どもが出来ないあんたを見限って追い出して、一切連絡を寄越さなかったんだろう!?」
「離縁を一方的に決めたのは家であって、この方は最後まで止めようとして下さいましたわ!そのこともお話ししたではありませんか!」

 老婆が言い淀んだ一拍を見逃さず、セオドールが素早くディーナの肩に腕を回して注目を集めた。

「ディーナ、落ち着け。…村長殿…あなたにも聞いていただきたい」
「……」
「経緯がどうあれ、私が彼女を見捨てたことは事実です。そのことについて弁明するつもりもありません。ですが、ようやく…ようやく再び会うことが出来た」

 一呼吸置いて。

「私は改めて彼女を娶ります。そして、二人でここで暮らす許しをいただきたい」
「セオドール様…!あ、あの、村長…私からもお願い致します…!」

 老婆は黙ったままひとしきり彼らを凝視した後、ようやく盛大にため息をついた。

「ふーっ…。やれやれ、もう少し文句をつけたいのに怒鳴ったせいでのぼせちまったよ…年は取りたくないね」
「村長…」
「まぁ、お前さんたちの言葉が本物なのは分かった。夜に集会所においで。皆の前で説明して、皆に判断してもらうことだね」
「あ、ありがとうございます…!」
「セオドールさん…だったね。あたしはまだ…最初に言ったことを撤回するつもりはないからね。覚えとくんだよ」
「はい」

 老婆がもう一度息をはき、踵を返して足早に去っていった。その背を見つめ続けるセオドールをディーナはおずおずと見上げ、聞く。

「セオドール様…何があったのでしょうか」
「いや、当然のことを言われただけだ。お前は気にしなくてよい」
「…かしこまりました」

 未だ沈んだ表情の彼女の肩を撫でてやる。その後近くへ抱き寄せ、それでようやく落ち着いたようだった。

「さて、夜に集会所だったな」
「はい」
「不安か?」
「そうではないのですが…このような大きな変化を久しく経験してこなかったもので…申し訳ございません」
「謝らないでくれ。お前の心境は理解しているつもりだ」
「えぇ…ありがとうございます」

 ディーナがそっと微笑み、セオドールの腕に頭を乗せた。

「…不安であることは、やはりその通りかもしれません。けれど、怖くはありませんわ。…そうです、きっとこれは、期待…」
「うむ。であれば、私も同じだ」

 二人でうなずき合う。場を仕切り直すように彼女はもう一つ笑顔を浮かべ、それから忙しない家事へと戻っていった。






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