26.

 ゴルベーザは宣言通り数日だけディーナの元で過ごし、その後再び地底界へと赴いた。狙いはドワーフの城に安置されているクリスタルである。
 先発隊はドワーフ軍と交戦状態であり、戦力を削ぐ目的で徹底的に砲弾を浴びせていた。しかし、制空の利を以ってしても思うような戦果は上がっていない。ドワーフ軍の耐久力と装甲技術は地上のそれを軽く上回るようだった。

「ゴルベーザ様、いかがいたしましょう?」
「現状維持でよい。出来るだけ戦力を引き出して削っておけ」
「はっ」
「隙を見せ次第城への船を出す。備えよ」
「了解しました」

 兵が敬礼し、退室した。ゴルベーザは現在バブイルの塔の最下層の基地にいる。彼は兜を外し、水の入ったグラスを傾けた。

(これ以上待機すればセシルたちに先を越されかねん。追撃覚悟で出るべきか…)

 もう一口水を含み、グラスを置いた。瞳を閉じ、自身を巡る魔力に意識を向ける。全快とまではいかないが、傷は全て癒え、戦うための力も十分戻っていた。
 ふと上層部に置いてきた彼の侍女を思い出し、ゴルベーザは緩く首を動かして出入り口を見やった。彼女の最後の表情はこれ以上ない程沈み、いつまでも彼を案じ続けていた。

(……ディーナ…)

 彼女には多くの苦労をかけさせてきた。どうしようもなく気が昂って衝動を抑えられなくなると、いつも彼女を標的にして手荒く扱ってしまう。そんなことを望まない自分がはっきりと存在するはずなのに、だ。
 頭の中に境界線があって、どす黒く荒ぶる精神はその先に深々と根を張っている。そして、どうやってもそこに手が届かない。一線を引いたのが己であるのかさえ、はっきりさせられない。
 彼女の忠誠心を裏切り続けてきたというのに、彼女は未だにゴルベーザに従う。その瞳に暴力への恐怖が映ることは結局一度も無かったように思う。内に秘めていただけなのか、どちらにしても彼女の態度はゴルベーザに救いをもたらし、そして"甘え"という弱さを生み出した。
 脳の奥底から鈍い痛みが上ってくるのを感じ始めていた。またか、とゴルベーザは舌打ちした。
 ディーナの姿を思い浮かべることがこの発作の原因の一つであると理解している。それでも彼女を訪ね、縋り、痛みは増す。悪循環であることも、彼女の負担を重ねていることも分かっていた。けれど、微笑みと共に与えられる温もりをいつも選んでしまった。
 ずきりと鋭く変化した痛みが響く。やめよう、とは思わない。憎しみだけを持たなければならない自分がディーナを想うための代償なら、喜んで耐えよう。
 あぁ、しかし。"奴"だけは来てくれるな。
 ざりざり。耳の奥から鳥肌が立ちそうな不快な騒音が生まれ始めた。ゴルベーザは何度も首を振ってそれを遠ざけようとするが、効果は無い。視界が黒い砂嵐に襲われたかのようにざあと濁った。

−…無駄な抵抗を−
(また貴様か…。貴様の言う通りにクリスタルは手に入れる…それの何が不満だというのだ…!?)

 重く重く圧し掛かる湿った声が、はんと鼻で笑って答える。

−お前には弱さが残っている。あの女の存在だ。あの時そのまま蹴り殺していれば良かったものを…−
(やめろ、これ以上彼女に手を出すな…!)
−手を出す?私はお前だろう?あれを痛めつけるのはお前の意思だ−
(違う、私はそのようなことは望んでおらぬ…!)
−ほう…では、お前は一度だって己の拳を止められたことはあるか?−
「!!」

 ゴルベーザの体が傾く。外の喧騒はもう耳に入ってこない。

−所詮、それがお前の本性なのだ−
(ち、違う…!私は…!)
−さぁ早くクリスタルを集め、あれを始末してしまえ…−
(嫌だ…!それだけは、私と言えど…従えぬ…!)
−ならば苦しめ。苦しんであれに矛先を向け、暗い悦びと後悔の念を膨らませろ。お前の闇が満ちる程に、私はお前の深くに潜れるのだから…−
(あ…ぁ…ディーナ…!)

 声が遠ざかる。代わりに両手が動かなくなった。次に腕が固まり、首、胴、足先と続いた。ゴルベーザは浅い呼吸を繰り返しながら、両耳を塞いだ姿勢のまま、じっと床の一点を凝視した。
 声の導きに同意すれば、この苦しみは一瞬で治まる。思考は冴え、それを実行する力が湧き上がることを実感する。目的を果たし、自らの憎しみを開放させることは何よりの快感だった。
 しかし。

(クリスタルは集める…それは誓う。だがディーナは…ディーナだけはやめてくれ…!)

 痛みに耐える脂汗が額からぽたりと落ちた。固まっていた指先が少しずつ解れ、同時に震え出した。ゴルベーザは長く息を全てはき出し、また長く吸う。身体の自由が戻っていくと共に、脳を刺す刃の攻撃もいくぶんか和らいだ。

(私はクリスタルを手に入れる…それが私の最大の目的だ…。他はいらぬ…部下も、弟も…私の侍女も…皆捨て置けばよい…。クリスタルだけが、私の手中にあればよい…)

 自らと、そして自らとよく似た"声"に言い聞かせていく。刺さっていた刃がひとつ、またひとつと外れてき、しかし最後の一本が脳の代わりにゴルベーザの心臓を貫いた。彼は音の無い悲鳴を上げ、左胸を握りしめた。
 頭の奥深く、ただ一箇所を穿つ痛みとは違い、隅々へ伝染し広がるそれ。身体中を激しく巡ったと思うと喉元でもどかしく留まり、首筋を掻き毟って暴きたい衝動に駆られる。彼は思わず天を仰ぎ、それから背を丸めて自らを抱いた。
 この腕の中に彼女がいれば。違う、いないから今彼は彼女を傷つけずに済むのだ。






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