19.

「おはようございます、ご主人様」
「あぁ…」

 ゴルベーザの返事にディーナの緊張が解けた。このところ、毎日同じような状況が続いていた。
 ディーナがゴルベーザの秘められた一面を知ってから、彼の情緒は目に見えて不安定になっていった。出会った頃と変わらず落ち着き払った威圧的な将かと思えば、もっと恐ろしく、心を失ってしまったかのように攻撃的な態度になった。
 その迫力と無慈悲さは四天王やカインすら震え上がらせる程だった。それは機嫌の問題などではなく、人が変わったと疑う程の違いだった。
 そして、その状態に陥った場合、彼はディーナに手を上げることをためらわず、高い確率で宵に荒く抱いた。
 加虐の衝動は性欲に置き換えられるという。事実、翌日のゴルベーザはいくらか落ち着いた様子を見せた。だから彼女も夜伽は彼の精神を鎮める最良の方法として、勤めの一環であると受け入れていた。心身への負担も、ゴルベーザを想えば耐えられた。

(今日は大丈夫そうだ…)

 いつしかディーナはゴルベーザの状態を素早く見抜く術を得ていた。より冷酷な空気を纏っている時は、口答えをせず声をかけることもしない。それはゴルベーザの配下全員の暗黙の了解となっていた。

「本日は…午前中に軍議がおひとつでございましたね」
「いや、あれは無くなった」
「あら、それでは夜までごゆっくり出来ますね。良いことですわ」

 食事を手早く済ませ、ゴルベーザがディーナの紅茶を流し入れた。食器を下げる彼女を見ながら不意に声を掛ける。

「ディーナ、今日一日付き合え」
「お側に控えるということでしょうか…?」
「そうだ」
「かしこまりました」
「それから…頭痛薬を」
「えっ?お加減がよろしくないのですか!?」
「今ではない。日が落ちると痛むことがあるだけだ」
「そうですか…どうかご自愛下さいませ。では食器を片付けて参りますわ」

 ディーナは一旦下がり、出来るだけ急いで食器を洗っていく。それから医療室へ向かい、ゴルベーザの名を出さないようにして、薬を分けてもらった。
 それを胸に抱き込み彼の姿を思い浮かべる。マッサージの時間何度か眉をひそめていたことがあったが、頭痛が原因だったらしい。一度目にひどく叱責されてから、それ以上気遣うことは出来なかったが。
 ゴルベーザの私室に戻ったが、彼の姿は見えなかった。ディーナは部屋を移動しながらきょろきょろと周りを見渡す。最後に入った寝室に彼はいた。

「こちらにいらっしゃったのですね。お薬はここに置いておきます」

 サイドテーブルに薬を置いてから、ディーナがソファに座るゴルベーザに近づく。すると彼は立ち上がり、おもむろに彼女の腕を引いた。自分の真横に引き寄せ、軽く肩を押して腰を落とすよう促した。
 何事か理解出来ず、ただ丸くなった両目を向けてくるディーナに対し、彼は一言呟いた。

「…膝を貸せ」
「!」

 受けたことのない命令を聞きディーナが身じろいだ。ゴルベーザがソファの端に座る。わずかに細め、わざわざ彼女の返事を待っているだろう彼の瞳は真意が読み取れず、しかし眼差しはただ真っ直ぐで。

「あ…えぇと、お、お待ち下さい…」

 ディーナは急いでエプロンを外し、適当に丸めてサイドテーブルに乗せた。鼓動が早まっている。程なくゴルベーザが身を屈めた。白銀に波打つ髪がディーナの腿に触れる。びくりと反応があった。
 ゴルベーザが頭上のディーナを見上げる。背を伸ばし、ぴしりと前を向き、その姿勢のまま固まっていた。

「力を抜け。心地が悪くてかなわぬ」
「…はい…」

 数度深呼吸を繰り返し、彼女は意を決して真下の主人を覗き込んだ。ぐ、と喉の奥が締めつけられる。震えがまだ止まらない。ディーナは羞恥と申し訳なさで両頬を真っ赤に染め上げ、か細い声で謝罪の言葉を出した。

「も、申し訳ございませんご主人様…」
「不服か?」
「いえっ!そうではなくて…」
「……」
「……ただ…恥ずかしいだけです…申し訳ございません…」

 その台詞にもいたたまれなくなったようで、ディーナは語尾を弱めながら顔を逸らす。ゴルベーザの唇の端がわずかに上がった。
 しばらくの沈黙。彼の呼吸とそれに伴う体の反応につられ、ディーナも少しずつ平静を取り戻したようだった。いつしか顔を覆おうとしていた手も下ろされ、ソファの上に置かれていた。
 部屋の遠くを眺めていたディーナが改めてゴルベーザに視線を落とす。まぶたを下ろし、完全に彼女に身を委ねていた。初めて彼と肌を重ね、初めて彼が弱さを露わにしたあの夜と同じ、主従の関係を超えて彼を慈しむ感情が生まれてくる。

(ご主人様は…患っていらっしゃる。バルバリシア様も、あれ程周りを顧みず荒れるご主人様は知らないとおっしゃっていた。自らのお心すらすり減らして、それでもクリスタルを集めなければいけない理由は何だというの…?)

 じわ、と目頭が熱くなり、慌てて彼女は指で押さえつけた。

(時々、ご主人様をご主人様だと思えないことがある…。あの違和感は何?つらく当たるこのお方を別人だと思ってしまいたい、私の現実逃避なの…?)

 衝動のまま叫び、拳を振り、ディーナを抱く彼は、沸き上がる激情に何より自身が苛んでいるようにも思えた。それでも狂気に身を明け渡すのではなく、どんな方法を取ってでも正常な自分に戻ろうと抗っているのだ。
 彼の側で見守り続けるディーナには、彼にとっては無意識であろう精神の揺らぎがはっきり見て取れた。だから、彼女は全てを彼に差し出すことが出来た。
 いや、どんな理不尽な状況に陥ろうとも、"ゴルベーザを愛している"の一言で全て片付く。それだけだった。
 窓から吹き込んだ風で、ゴルベーザの前髪が額にかかった。ディーナは自然とそこに指を伸ばしていた。
 柔らかな手つきで前髪をかき上げる。それに連動してゴルベーザがゆっくりと瞳を開けた。ディーナが素早く離れていく。

「申し訳ございません。起こしてしまいましたか」
「…いや」

 ゴルベーザが含みを持った視線を投げた。ディーナは微笑み、彼の額にそっと触れた。

「何か言いたそうだな」
「……あなた様のお身体が心配で…。本日のように、もっと休息のお時間を取っていただきたく思っております」

 彼女の言葉にゴルベーザはわずかに首を動かした。

「そうもいかぬ。私は一刻も早くクリスタルを手に入れ、月に行かねばならぬのだ」
「月…ですか?」
「そうだ。地上と平行して地下世界のクリスタルも集めねばならぬ。休む暇など無い」
「…ならばせめて、今日だけは…今だけは、そのお役目をお忘れいただけませんか…?」
「……」

 ゴルベーザは返事をしないまま深く息をついた。ディーナが額に添えた方とは逆を使い、彼の胸をごくごくゆるやかに撫でる。彼は彼女の腹に頭を押し付けるよう首を傾け、じっと目を閉じた。じわじわと体温が互いを行き交っていく。

「昼時になったら起こせ…」
「はい、おやすみなさいませ…」

 やがて規則正しい寝息が聞こえても、ディーナは動きを止めなかった。






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