16.

 赤い翼は帰還予定日の深夜にゾットの塔へ戻ってきた。ディーナはバルバリシアに許され、彼女と共に格納倉庫内まで立ち入っていた。
 兵士や整備員が入り乱れる中、バルバリシアは奥の小屋を目指す。ディーナが何とか後ろをついていると、倉庫内がさらに騒然となった。

「飛空挺が出るぞ。真後ろに立ちなさい」
「はい…!」

 けたたましい稼動音が響き、遠くに見える飛空挺が少しずつ動き出した。それに伴い、突風が吹き荒れる。ディーナは両手を顔の前に上げ、体勢を崩さないよう膝を軽く曲げて備えた。しかし、風は何故か襲いかかってこない。
 そろそろと警戒を解くと、バルバリシアが振り返り、得意気に笑っていた。

「私を誰だと思っている?さぁ行くぞ」

 気づけば騒音も収まっている。彼女たちの周りだけが何かに包まれ、その外側と隔てられているようだった。
 二人が小屋の前に着く頃には、飛空挺は夜空へ飛び去っていた。
 何度かノックしてバルバリシアだけが入っていく。しばらくしてから再び扉が開き、出てきた彼女がディーナに道を譲った。緊張していたのか、額には汗がいくつも浮いている。
 ディーナが中へ踏み入れると同時に、背後から風が舞う独特の音が短く聞こえた。バルバリシアが下がったのだろう。ディーナはその場で深くお辞儀をしてから前へ進んだ。兜を脱がないままのゴルベーザが壁際に立っていた。
 一歩、二歩、そして三歩目を出そうとしたが、その瞬間、ディーナの全身に冷たい衝撃が駆け抜けた。彼女はひく、と喉を引きつらせて止まる。何度か横で感じたことのある、ゴルベーザの無慈悲な覇気だった。

「…おかえりなさいませ、ご主人様…」

 普段と変わらぬよう務め、ディーナは静かに頭を下げる。離れた場所に佇むゴルベーザは、明らかに彼女が知る主人の姿のどれにも当てはまらなかった。身体中に突き刺さる殺気。湧き上がる恐怖心。まるで、彼の敵だと認識されたような。
 これが戦いを終え、気が昂った状態の彼なのだろうか。

「遠征、お疲れ様でございました。お風呂の用意が出来ておりますわ」

 出来るだけおだやかな微笑みを浮かべ、反応を待つ。黙ったままゴルベーザがディーナに近づいた。足を止めず、すれ違いざまに彼は言い放った。

「湯浴みをして床に来い」
「…!!」

 言葉の意味がにわかに理解出来なかった。いや、したくないだけった。
 膝の力が抜け、ディーナがその場に崩れた。次いで激しい眩暈が彼女を襲い、視界が真っ白に染まった。

「あ…あ…そんな……」

 足に力が入らない。耳鳴りが止まない。身体が熱いのに、ひどく寒い。

「そんな…嫌……いや…!」

 絞り出した霞んだ声と共に、大量の涙が溢れていた。ディーナは何度も首を振り、ゴルベーザの言葉を頭から消そうともがく。
 それは、彼女の全てにおいて拠り所となっていた、侍女としての誇りを打ち砕く残酷な命令だった。

*

 ぐす、と鼻をすすりながら、ディーナは自室の鏡に向かう。化粧を施し直してもひどい有様だった。洗ったばかりの給仕服に袖を通し、エプロンを着ける。涙がまた一筋頬を滑った。

(これ以上泣いては駄目よ…)

 何度か深呼吸を繰り返してから、真っすぐ立ち直した。普段と全く変わらない出で立ちの自身と向き合う。誇らしく思えた。
 ディーナはこれからゴルベーザの慰み者となる。その命令は未だに信じられなかった。彼女を侍女として隣に置き続け、働きを誰よりも認めてくれたゴルベーザ。心から敬服する主人。そんな彼が、自ら始末したディーナのかつての雇い主と同じことを口にするなんて。

(…私はご主人様にとって、侍女から娼婦に成り下がってしまった存在なの?それとも、主人は私たちを皆そのように見ているの…?)

 彼女にとって、愛する人に愛する人として抱かれないことよりも、侍女と娼婦を混同されたことの方が、悔しさはずっと勝っていた。侍女とは主人を世話する道具であっても慰めのそれとは違う。そう叫びたくてたまらなかった。
 このまま部屋に篭り、ゴルベーザの怒りを買って殺されようかとも考えた。けれど、自らの都合で命令違反を犯すのは、まだ残っている彼女の矜持が決して許さなかった。

(……行こう)

 鏡に最後に映ったディーナの表情は厳しく、それでも凛と涼やかなものだった。






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