14.
ゴルベーザは風呂上りに施される手足のマッサージをずいぶん気に入っているようで、ゾットの塔に入ってから毎日欠かさずさせていた。彼が一番気を抜き口数を多くする時間であり、それはディーナにとっても大切なひとときであった。
おかげで香油の残り香がいつも着けている室内帽に染みついてしまい、ふとした拍子にくつろぐ主人の姿が脳裏をよぎり、胸を高鳴らせては自身を叱責するという悪癖がついてしまっていた。服やエプロンと違って、これは替えも洗う頻度も少ない。予備を新しく作って毎日取り替えるべきか、彼女は真剣に悩んでいた。
「…何を考えている?」
「え?あぁ…とりとめのないことですわ…失礼しました」
(決めた、やっぱり増やそう…)
言葉を濁しながらディーナが苦笑する。動きを再開しようとしたその時、クッションの上に置かれたゴルベーザの右手が彼女のそれを握った。彼女が両目を開く。
ゴルベーザは手元をじっと見定め、そのまま動く気配が無い。ディーナは激しく動揺していたが、それを表に出すまいと必死に押さえ込んで耐えた。
武骨な彼の指にはもう何度も触れてきた。それなのに、鼓動が治まることを忘れてしまっている。
(し、知られては駄目、知られては駄目っ…!)
呪文のように、自身に言い聞かせる言葉をひたすら繰り返す。
ややしてから、ゴルベーザの指がディーナの肌をゆっくりと撫で始めた。
(…何と小さく薄い手か…。このまま力を入れるだけで、簡単に貫いてしまえそうだ)
試しにく、と親指を手の平の中心に押し込んでみる。ディーナが突然生まれた刺激に息を止めた。
「っ…!?」
「何だ、痛むのか?」
めずらしく素直に何度もうなずく。
「ここは…何の場所だったか」
「ひっ…!」
「あぁ、これは覚えているぞ。肩だろう」
「あっいたっ…い、です…!」
「ほう、忍耐強いお前も根を上げるか。少しは己も労われ」
「も、勿体無いお言葉です…!」
ここでようやくゴルベーザがディーナを解放してやる。彼女は深くうなだれながら、じんじんと痺れる右手を何度もさすった。予想以上の痛みももちろんだが、ゴルベーザが戯れてくることに驚いていた。
今日の彼は、普段よりほんの少しだけ童心に返ったような、そんな印象を持った。
常に孤独に身を置き、誰と談笑することも無く、世界に散らばるクリスタルを手に入れるため、ひたすら指揮官の役割のみをこなすゴルベーザ。そんな彼に、例えば話し相手や戯れ先として扱われるのは、ディーナにとってこの上なく光栄なことであった。
衣食住だけでなく、精神的な面でも彼に尽くし、支えたい。彼女はそう願っている。
「…さぁ、続きをいたしますわ」
ディーナがそう言って仕切り直し、ゴルベーザの左手をクッションの上まで導いた。香油を取り、丁寧に温めてから塗りつける。
ゴルベーザは思わず出そうになった欠伸を噛み締め、彼女の様子を見守った。
(……いくら何でも緩みすぎだ。他人を前にここまで無防備になるなど、どうかしている)
どう襲われようと返り討ちに出来るからとか、そういう問題ではない。例えどんな人物だろうと、己の内側に一歩たりとも侵入させてはいけないと、そう制してきたのではなかったのか。他人は憎しみの対象でしかなかったのではないか。
ゴルベーザが顔を伏せ集中するディーナを静かに見つめた。彼女は視線に気づかず黙々と手を動かしている。長い睫毛に隠れる瞳には、慈しみの感情が確かにあった。遠く遠く、もう思い出せない記憶の中でしか向けられたことのない眼差しだった。
多くの配下の中で、彼女だけがその目をしていた。いつからかは分からないが、気づいた時にはそうだった。そして、その瞳も、彼女の手から伝わる温もりも、彼がいかに足掻こうとも無駄に過ぎず、心地良いと感じてしまうものだった。
(一人ぐらいは……構わんのかもしれぬ…)
ずきん。
「!?」
ゴルベーザの頭に、何の前触れも無く激痛が襲いかかった。思わず呻き、背を丸める。
「ぐ…!」
「ご主人様…!?」
文字通り頭が割れそうな程の、一度一度の衝撃が全身へ響き渡り、体の自由と思考を奪っていく。
「いかがなさいました!?」
ディーナもひどく狼狽し、ただおろおろとゴルベーザを見やるだけだ。やがて彼が何とか顔を上げ、小さく言う。
「何も、無い…」
「そんな…!」
「私は休む…お前も下がれ…」
額に手を当てながら立とうとした彼にディーナは寄り添った。しかし、体を支えるべく伸ばした腕は強く跳ね除けられ、彼女は小さく宙を舞った後床に打ちつけられた。
「下がれ!!」
「し、失礼いたしました…!何かあればすぐお呼び下さいませ…」
ディーナが逃げるように退室する。ゴルベーザは調度品に手をかけ、不安定ながらも体勢を保ち、よろよろとベッドへ進んでいった。
網膜に残る、彼を案じるディーナの姿が黒く塗り潰されていく。
−安らぎなど、求めるな−
「ぐ…あ…!」
ベッドの脇でゴルベーザが屈み込んだ。頭の中で暴れ回る痛みに、重く暗い声がいつの間にか混じっていた。
−逆らうな。憎しみだけを持て−
「…っ…」
−お前は毒虫。全てを呪って這いずる毒虫…−
「……」
声に耳を澄ませるだけで、攻撃が嘘のように引いた。
毒虫。ゴルベーザは心の中でその単語を何度も何度も繰り返す。
(……あぁ…そうだった。私は…憎まなければ…ならなかった……)
…何故?
(何故…?声は…私のしるべだ…。私は声に従い生きる…それが…我が、道…)
ずき、と再び頭が締めつけられる。今度は鈍く、奥底でくすぶるような感覚だった。
−そう…いい子だ−
霞んでいたディーナの映像が完全に消えた。
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