ぎゃふんと





そこでその人に会ったのは全くの偶然で、でも、忘れられなかった、その綺麗な黒髪は、後ろ姿だけでも一瞬でその人だってわかった。

「伊月さん!」

無視できなかったのは俺の性というか恐らく、その状況を前に無視ができる知り合いはいないだろう。
梅雨の雨と言えど、涼しい店内に入ったりすれば濡れた体は冷える。
そうすると、身体を壊してしまうだろう。なんて、声をかけた理由を誰にともなく言い訳する。
そうだ。別に姿を見かけて浮かれたわけなんかじゃない。

そんな風に考えるくらいには、振り返った彼の様子をみて、申し訳なくなった。

「……高尾?」

え、と一瞬体が硬直した。
随分と雨に濡れてしまっている顔には、確かに、雨なんかじゃ隠せないような滴のライン。

「あっ…ごめん」
「いえ、あの…」

こう言うときどうすればいい?

どうしようか。

とりあえず、俺は持っていた傘を降りしきる水に濡れるその人に差し出した。
水が伊月さんに降ることはなくなり、その代わり、俺の頭を濡らす。
何故だか妙に冷静になった。

「伊月さん、うち来ませんか」



「その……高尾」

シャワーありがとう、と伊月は口の中でもごもごと口ごもる。

伊月さんの着ていた服は乾燥機に放り込み、今彼は俺の服を借りている。身長差があまりなくてよかった、と息をついたら伊月さんの拳骨が落ちた。

遠慮されるよりはずっといいけどやっぱり痛い、と笑うと伊月さんは照れたように目線を外した。
気にしてるんだからな、と言い訳のようにぶすくれた口調が可愛い。

「それで、どうしたんです?」

問いかけは単刀直入。伊月はぴくりと身体を揺らした。

「言わないと…駄目か?」
「俺には知る権利があると思うんすけどー」

そうだよな、と彼は自分を納得させるように呟く。

伊月さんが座ったベッドがぎし、と音を起てる。それだけでなんとなく、そわそわした気分になる。

ここ、俺の部屋だ。

そんなどうでもいいことが急にリアルに感じるようになって、伊月さん、そこ、俺のベッドなんですよ、そこでいつも寝てるんですよ、なんて、なんとなく考えた。
何故だか疚しい気持ちになった。

「うん、そうだよな…うん…」

最後の方の語尾は少しだけ震えていた。

すぅ、と伊月さんは大きく息を飲む。
吸い込んだ空気を全部吐き出す勢いでため息をついて、うん、ともうひとつ自分を律した。

「好きな人がいるんだ」

沢山タメで、初めに言われたことがそれだった。

ああ、やっぱり。なんて冷静に聞いた自分と。
それから、その考えを肯定したくなかった自分が目の前を暗転させた。

「ずっと好きで、でも、それを言えなかった」

伊月さんの声が遠い。
大好きな人なのに、その声を遠ざけようとする自分がいる。

「好きで、好きで。関係を変えたくなかった」

だれだろう、なんてぼぅと考える。
その人はきっと、伊月さんにお似合いな、気配りのできる、素敵な人だ。応援したくなるような、きっと。

「でも、……うん」

は、と伊月さんの声が途絶えた。
濃い息を吐くような音に、思考は現実に引き戻される。

「……うん、……その人には、……素敵な恋人ができたんだ」

最後の方は嗚咽で殆ど聞こえなかった。
どうしたらいいかわからない、
堪えきれなくなったらしい涙がぼろぼろと溢れていく。
持ち前のコミュ力もいざ、好きな人が泣いているときに発揮できなきゃ意味がない。

笑ってほしいのに。
笑ってるこの人が好きなのに。

そうですか、とひとつ息をつく。

どう言葉を紡げばいいんだろう。俺にできることはなんだ。目の前で涙を溢すこの人に、俺ができることは。

そんなこと、考えても考えても答えは出ない。こんなことになるんだったら聞くんじゃなかった、今更になって後悔が押し寄せる。
こんなこと、初めから予想できただろうに。

「え、と…、伊月さん」
「な、なに…、」
「その、この間ですね!真ちゃんが部活にウサギの着ぐるみ着て現れまして!」
「へ」

考えて考えて、初めに出た言葉がそれだった。実際に着て現れたことがあるのだから、一応嘘じゃない。嘘じゃないけど、こめん真ちゃん、と出汁にすることを謝る。

「俺達爆笑で!木村さんまでお腹抱えて笑っちゃって!」
「…うん」
「いくらおは朝信者だからっていい加減にしろーって!宮地さんも悪態付いてたけどあれは絶対笑ってた!俺達瀕死状態だから真ちゃんってば「人事をつくしたまでなのだよ」って真面目に言うからまたおかしくて!」

笑え、笑えと何度も心のなかで唱える。

「そんななか、大坪さんてば、冷静に人参持ってくればよかったな、なんて呟いてて!俺達もう腹筋壊れるかと!宮地さんも流石にお腹抱えて座り込んじゃって!」
「へぇ」

伊月さんの唇に少しだけ笑みが浮かんだ。よかった、笑ってくれた。
そう思ったら、思わず、その頬に手が伸びた。触れた瞬間、ぴくりとその体が震える。

「ねぇ、…伊月さん。笑って?」

伊月さんが真っ直ぐに俺を見上げる。
黒い濡れた瞳が、俺を捕らえる。ああ、もってくれ俺の理性。

「伊月さんが好きです。伊月さんの笑った顔が好きです。伊月さんの笑い声が好きです。あなたが、好きです」

ああ、言っちゃった。もう後には引けない。

「ね、伊月さん。別に俺のこと、好きじゃなくたっていいんです。でもさ、なんか悔しいじゃないですか。こんなに好きで泣いてるのに、向こうは幸せなんですよ?」

俺は卑怯だ。
伊月さんがこんな状態の時に、俺の気持ちを伝えた。
俺は卑怯だ。
逃げ道を残して、伊月さんに取り入ろうとしている。

伊月さんはこんなに素敵な人なのに、俺は素敵な人にはなれやしない。
でも、このチャンスを逃してなんていられない。

「だから、ほら。俺に悪いなんて思わなくていいんすよ。伊月さんが好きなだけです俺は。好きな人が、泣いているのが悔しいだけです」

だから、どや顔してやりましょうよ。

伊月さん、付き合ってください。

俺は幸せですって。




あとがき

鳥目企画に参加させていただいたもの。
続きます。
この一ヶ月で短期連載という形の企画ものなので。





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