mononoke2 | ナノ
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別条の無い日々を過ごす世界。
其処こそ、夢香が生を受けて育ってきた場所であり、現実だ。
代わり映えのしない日々は少々つまらなくもあるが、普通に暮らしていれば安心して生活できる恵まれたこの世。
しかし有り得ない存在――薬売りの出現によって
知り得たいつもの日々は、まだ戻ってはこないのだということを夢香は理解した。


「……あ」


驚きすぎて放心していたが、身の周りが視界に入り青ざめる。
此処はひとり暮らしの部屋。当然誰かが入ることなんて想定していない状態だ。


「げっ!ちょ!振り向かないでー!」


動揺した視線の先を追って、薬売りがさり気なく振り向こうとしたのを、声を上げて制止する。
慌てて薬売りの後ろに回り込み、投げ出されていた洗濯物を抱え込むと
そのまま寝室にしている隣部屋に放り投げてドアを閉めた。


「………は、はは」


寝室で哀れに散らかったであろう洗濯物。
目の前から隠せばいいという精神は、薬売りの瞳に下品に映っただろうか。
しかし、時代で形は違うにせよ、下着類をその美しい瞳に映すよりはマシだと心の中で結論付ける。


「と……とりあえず、そこのソファに座って下さい」
「では、お言葉に‥甘えて」


背負っていた荷を床に置き、ゆっくりと腰を下ろした薬売りをちらりと見やる。
自宅のソファに薬売りが座る日が来ようとは思ってもいなかった。
アンティークな花柄ではなく、和柄を選んで買っていればよかった、と夢香は後悔しながら
ソファの前に置いてあるテーブルからそそくさと朝食の影を片付ける。
しかし整理整頓を普段からちゃんとしていれば一番よかったのだと、途中で我に返った。


急いで用意した緑茶を出す。あいにくお菓子は在庫切れだ。
後悔することばかりの現状に疲れて、夢香は控えめに薬売りの隣に座った。


「そんなに、気を遣っていただかなくて、結構ですよ」
「いや、せめて必要最低限のことは」


苦笑しながら、落ち着かせるために自分のぶんの緑茶を飲む。
しかしそれは白湯なんじゃないかと思う程に薄かったため、顔をしかめた。


「此処は、夢香さんのご自宅……ですよね」
「うん。此処で一人暮らしをしてます。集合住宅なんだけどね」


薬売りが視線を流し、周りを見る。


「年号を聞いても、よろしいですか」
「平成です」
「へいせい……」
「もしかして、知らない?」
「渡ったことがあるのは、たしか、大正まで……でして」


それならば、地下鉄で起こった化猫の物語はもう終わって今に至るのだろうか。
夢香は疑問に思いながら、大正の次に昭和という時代がきて、今の平成になったことを簡単に説明した。
その説明で自分自身が冷静になり、薬売りがここにいてはおかしいということに気付く。


「あ!でも、此処はきっと世界自体が違うから…!」
「と、申しますと」
「えっと……」


言って良いだろうか。
薬売りのことはアニメになっていて、自分も含め、沢山の人が貴方のことを知っているということを。
これから一ヶ月は此方の世界にいることになるのだから、どこかで知ることになるだろう。
それならば色々と注意してもらうためにも早い方が良い。


「変なことを言うと思うかもしれないけど。
私、出逢う前から薬売りさんのこと知っているんです」


薬売りの穏やかな蒼い瞳が細まる。


「……ほう。
何を‥知って、おいでで?」
「坂井家の化猫騒動とか、座敷童子。海坊主とか、のっぺらぼう、鵺、化猫です」


あらいざらい言い過ぎかもしれないが、モノノ怪を観れば誰もが知っていることだ。


「なる‥ほど」
「この世界で薬売りさんのことはお話になってるから……
知ってる人は他にも沢山いると思う」


深刻そうに言ったにも関わらず、薬売りは然程気にしていない様子で口を開く。


「いつの世にも、噂はあるもので。
知られているのには、慣れている。
なんとでも、なりますよ」


余裕さえ感じられる答えに、自分が感じていた不安は大したことなかったことに思え、
夢香は小さく「そっか」と口にした。
薬売りの顔には催眠効果すらあるのではないだろうか。
しかし直ぐに更にまずいことを思い出した。


「あ…!住民票とか無いからどうしよう!生活するとなると……」


とはいえ、国籍すら無い。
色々な手続きは無理だろう。すると、一ヶ月間は秘密でここにいてもらわなければならない。
大家さんに見付かってしまえば、色々と追求されるだろうからアウトだ。
更に外で不審人物として警察にでも捕まったらどうすればいいのだろう。
退魔の剣だって持っているのだ。銃刀法違反……しかし普段は抜けないから大丈夫だろうか。
薬事法違反はどういうものだっただろう。


頭を悩ませていると、色々なことが見えてくる。
なんせ薬売りは異世界の人だ。こちらの常識は通用しない。
頭が痛くなってきた夢香は、がっくりと肩を落とした。
その視界には自分が身にまとっている鮮やかな着物が映る。


(うわ……最悪だ。ひの依の着物のまま帰っちゃったんだ)


今更気付いたことに唖然とする。
浅い知識ながらに、遊女が身を飾るもの全ては、借金になる仕組みであるということを知っていたため、
高そうなこの着物はかなり負担になるだろう。
ひの依に今すぐにでも返したいが、夢香にはもう返す手段が無い。


(ちょっと待って……私、バッグは!?)


携帯電話と財布が入っているバッグが手元に無い。
向こうに置いてきてしまったのだろうか。
一瞬そう思うが、向こうに行ったときにはもうバッグは無かったことを思い出す。
ということは、飛ばされる時に落としてしまったのかもしれない。
古本屋だろうか。


「ちょ、ちょっと薬売りさん!
私出掛けてくるんで…!」


そう言うなり夢香は慌てて寝室に入り、ラフな服に着替える。
日本髪も下ろし、目立ち過ぎる遊女の化粧から普段のものに戻して、リビングに戻った。
薬売りを見て、何か言わなければいけないことを必死で探す。


「えっと…うーん。そうだ!此処でおとなしく待っててくださいね!」


外には出ないでくれれば良いだろう。
咄嗟に適切な言葉が出てきたことに満足して、家を後にした。

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