TIME | ナノ
─05─

 吹きすさぶ日本海からの風は耳まで凍みるように冷たい。海は元気か、季節の変化に弱い彼女のことだから体調を崩していないだろうか。泣いていないだろうか。
 それでも、自惚れだとしても自分の為に今も泣いていてくれればいいとはとんだ思い上がりもいい所だ。海には自分みたいな最低な男より今はきっともっと優しくて頼りになる男が傍に居るに違いないのに。
 男は暫し早めの休暇届けを部長に提出し、日本特有の始めはこの師走の忙しい時に長期連休とは。受話器越しに嫌味を言われたが、事情を説明すればすんなり受理された。
 年末年始の休みまで残りの引き継ぎをファーランに任せ、男は明日からミカサの・・・いや、海の住む地元に向かう。会えるかもわからないし、心の準備もまだ整ってさえいないが、海と向き合う覚悟なら1人虚しく過ごした寂しさ増す秋の後悔より何度もした。新幹線の切符も買った。(もちろんグリーン席)キャリーバッグに少しの荷物と帰りがてらクリーニングに出していた喪服を取りに行かねばなと思案しながら会社の外にある自販機でコーヒーを買っていると背後から凛とした声が響いた。
「主任? あっ、やっぱり。お疲れ様です」
「ペトラか」
 声をかけてきたのはペトラだった。そういえば海への思いと失念の日々を自覚してから無意識に幼なじみの彼女を避けるようになった男は多少の気まずさを覚えつつも飲むか?とペトラの髪の色のような甘いミルクティのペットボトルを手渡した。
 二人で並んで自販機の傍らのオフィス内のソファに座り、男は呟くように彼女に話しかけていた。まだここを離れる準備は終わってはいない。彼女とこの話をしなければいつまでも海は悲しい顔のまま。
「なぁ、ペトラよ」
「どうしました?」
「仕事の話じゃねぇ。かしこまらなくていい」
 幼い頃からの幼なじみの間柄だが、今は違う。会社の上司と部下である。しかし、男は周囲に誰もいないのを確認すると真面目で理知的で、模範的な社会人のペトラも始めは戸惑っていたが、元の口調に戻った。
「それで……? こうして話すのは久しぶりだけど。急にどうしたの? 前まで今にも倒れそうな顔をしていたのに……最近は顔色もいいし」
「お前、親父が倒れた時、俺に大切な人間が出来るまででいいからお願いだからそばに居てくれと、言ったな。俺は出来る限り、お前のそばに居て、お前を守ろうとしていた。俺なりにここまでやってきたつもりだ」
 彼女が自分の変化をよく知っているのはきっと……自分は理解していた、女が向けてきたその眼差しが何の意味を持つのか。ペトラにも、そして、海も確かにその瞳をしていた。それなのに、見ない振りをした。愛し方さえもよく分からなくて。
「急にどうしたの?」
「お前の気持ちはわかっていて、応えてやろうともしなかった……。お前は仕事もできるし頭もいいし要領もいい、誰が見ても完璧なのに……どうしてか、気付いちまったんだよ。俺にとって、守りたい相手は、お前じゃないってことに。四十手前のオッサンがらしくもねぇことを思ったんだよ」
 ペトラも大切、だがそれ以上に失いたくないと、守りたい存在は。髪の短い聡明な彼女ではない。気付かされたのだ、彼女でなければ自分は自分じゃなくなってしまうと。
 「リヴァイさん?」
 揺れる柔らかな髪、幼い顔立ち、はにかんだ笑顔、垂れた大きな瞳、折れそうな色白で華奢な肢体も手のひらに収まる柔らかな胸もくびれた腰つきも、香りも全て。小さな海を抱きしめている間は本当の自分になれた気がした。海と居ると、仕事の疲れも何もかも癒されていた。危なっかしくてどこか儚いその瞳が自分を見つめるだけで無茶苦茶興奮した。ペトラはリヴァイの言葉に静かに頷くと、どこか決意を秘めたかのように。
「ちゃんと分かってます。リヴァイ主任。私の唯一の父親が、病気で倒れて、私が弱ってしまっていた時に1番優しくしてくれて、そばに居てくれましたよね。でも、父は回復しました。それに、私は、もう、一人でも私は、大丈夫です」
「ペトラ……すまねぇ」
「いいんですよ。本当はリヴァイの職種に興味があったとかじゃない、本当は子供の頃からずっと……。リヴァイの事、お兄ちゃんじゃなくて、カッコよくて強くて、凛としてて、周りから一目置かれてて……。私のヒーローだった。リヴァイは、ずうっと私の憧れの人だった。一緒にいたいってわがまま言って、それでも傍に居てくれたから……甘えていたんだ」
 けれど、ペトラと海は違った。海は慣れない都会に振り回されながらも自炊をしたり、ひとりで頑張っていた。そして、こんな自分に怯えていたのに仕事となれば真っ向から自分と向き合ってくれた。しっかり目を見て男の事を好きだと、打ち明けてくれた。ペトラはリヴァイをずっと見ていたから、だから次第に海に心惹かれていることを知っていた。
 そして、いずれ居なくなる彼女よりも……自分を見て欲しくて、なんとかして引き止めたいと思ってしまった。だから、あの時わざと海の目の前で、しかし、その日を境に海は一気に崩れ落ちてしまった。そして自分は去りゆく海にトドメの一撃を喰らわせたのだ。
「……本当は誰よりもあなたを思っていたあの子は、あなたと私の幸せを願って身を引くなんて」
 自分には出来ないことを海は簡単にやってのけた。だからこそ、今度こそは、自分は好きな人のために幸せを願うのだ。
「さよなら、リヴァイ……」
 そうして、ペトラがリヴァイに手渡したのは退職願だった。リヴァイを頼り今までこの会社で働いてきたが、もう、彼から離れなければならない。
 リヴァイは引き留めようとしたが、去りゆく背中を見て黙り込み、肩を震わせ泣いている彼女に情で優しくすることは残酷な事だと理解し、それを受け取ると懐にしまった。
 散々自分の性格のせいでいろんな関係者の人たちを巻き込み傷つけた。自責の念に駆られたが、その自責を償うために今の自分は与えられた地へと向かうのだ。
「海……」
 それでも求めるのは、誰かを悲しませてそれでも……、男は信じた。どうか、また海に巡り会えることを。明朝の始発の新幹線。乗り込み向かう日本海の地へ。天気予報は豪雪。天候が不安定な飛行機よりも新幹線を敢えて選んだ。長い旅になりそうだと男は新幹線の中で瞳を閉じる。
 ロックを解除したスマートフォンの待ち受け画面には真っ赤な顔をした海の優しい笑顔と相変わらずの表情筋の死んだ素っ気ない自分の三白眼。どこからどう見ても自分たちがかつてあの夏を共にしたことなんて誰も気づきやしない。
 この距離が彼女へ近づけば近づくほど、男は緊張と得体の知れない不安に睡魔も次第に冷えてゆくようだった。

 
To be continue…

2018.09.07
2021.01.08加筆修正

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