TIME | ナノ
─02─

 恋を失うことがこんなにも辛いものなのだと痛感したまま、恋しくも切ない思いだけが募るばかりでいつまでたっても消えてはくれない。
 この思いはどこへ向かうのか、そして、いつまで引きずればいいのだろう。自分でも分からなくなるほど、この苦しみが永遠に続くのではないかとさえ錯覚する。
 過去、ただ欲を満たしただけなのに勘違いした女があれをしろこれをしろもっと愛してと自分の背中に縋りついてきたのを疎ましいとさえ思っていた。
 今思えばそれは相手にとってとても酷な事をしたのだと。これは過去の自分の行いがカルマとなって今の自分に跳ね返ってきたのだと思えば男はただ静かにこの痛みを甘んじて受け入れる。今も夜な夜な思い出す。海のあの悲しそうな顔が、忘れられない。
 何度も眠り、何度も起きて、そしてまたいつもの空虚な朝が、日常が来る。繰り返す毎日。ただ、この退屈な日常で唯一変わったこと。それはどこを探しても彼女が居ないこと。もう愛おしい彼女には触れられない。自分よりも小さくて、柔らかくていい匂いのする身体を抱いてどこまでも眠りに落ちていきたいとさえ思うのに。
「あ、おはようございます。リヴァイ主任」
「ああ」
「リヴァイ主任、顔色が良くないですが……大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。それに、元々俺の顔色は悪い方だろ」
「そうですか?そんなことないですよ」
 いつも周りを気遣いハキハキとした性格に小動物のような愛らしい容姿をしたペトラと呼ばれた利発的な女性は男が好む紅茶をいつも用意してくれる。
「どうぞ」
「ああ、いつも悪いな」
「いいえ、」

 彼女は確かに社内でも人気があるし、よく気が利くし、自分に良く尽くしてれる、周りからも言われる通り完璧だと思う。
 しかし、それだけ。完璧なのに、頭に過ぎるのは一生懸命頑張っても空回りしてばかりのおっちょこちょいでぼんやりしていた海の事。目の前の彼女では、全くそそられないのだ。
 そもそも、周りからも仲睦まじく見える男とペトラは幼少期からの長い付き合いだ。年の離れた彼女は男にとっては大切な妹のような、幼なじみとして近くにいて当たり前の空気のような存在だったから。
 彼女が男の働く業種に憧れてちょうど男の縁でここに来たのも数年前の出来事だ。しかし、男が探しているのは、待っていたのは、彼女の紅茶ではないのだ。
 「はいっ、主任、紅茶ですよ、あっ、あっつ!! きゃあっ!!」
「おい、危なっかしいやつだな」
「すみません、すみません!!」
「ほんとにお前はドジでどうしようもない馬鹿だな……俺を殺す気か……」
「あの、違うんです! そんなつもりはないんですっ!」

 もう、ここにはいないのに、今も鮮明にあの声を覚えている。普段はそんなに高くない声それなのに、歌う時や、抱き合った時だけに聞いた耳をくすぐる可愛らしい甘い声。
 一生懸命お茶出しはするも、危なっかしくてガチャガチャとやかましい音を立てて紅茶を持ってくる元気なスリッパの足音も、愛らし小動物みたいな顔をした緩やかな髪の彼女は何処にも居ないこと。男がふと、窓に目をやればちらちらと雪が降り出していた。
「あっ! 雪……もしかして、初雪です、ね」
「あぁ、……そうだな」
 あれから数ヶ月。年の瀬になり、月日は流れても、何度も何度も繰り返す記憶の欠片は、彼女の幻影は男にまとわりついて離れてくれない。身につけていた体臭と入り交じる香水さえも思い出すほど。あの日から男の時間は止まったまま、何も感じなくなってしまっていたのだ。雪を見つめるだけで雪国に住む彼女をまた更に思い出してしまった。
「もしもし、ああ、久しぶりだなエルヴィン。元気か?」
 久方ぶりに電話が来たと思えば相手は同じ大学の先輩で同じ会社に入社したエルヴィンだった。めきめきと手腕を発揮してあっという間に課長にまで上り詰めた頭のキレる男。そう言えば、デキ婚で途中で居なくなった代わりの出向の社員を決める時、海の事も彼伝いに紹介されたことを思い出した。
 彼の部署で、多少いや、かなりおっちょこちょいだが、仕事になれば誰よりも頭が回り、仕事も早いと言う海の事に興味を抱いた。写真を見た時、実年齢を疑うほど確かに海は幼く、初めてその存在を見た時も何かの小動物かと疑ったほどだ。
「俺も変わらず過ごしていたが。お前は元気か?」
「ああ、こっちも変わらずだ」
「発行も順調みたいで何よりだ。こっちでも毎月届くぞ。名前もしっかり記載されている。編集後記・編集長リヴァイ・アッカーマン。よかったな」
「周りが優秀なんだよ、俺は校閲しかしてねぇ」
 しかし、男は自ら海の上司であるエルヴィンに電話をしてわざわざ遠回しに様子を聞き出すような真似はしなかった。うっかり、海が電話にでも出たら大変だ。彼女は電話に出るのがものすごく早く、コールが鳴る前に電話に出るとんでもない最速の記録を持っているのだ。ここに辿り着くまでに、途方もなく長く感じた。早く海の様子を知りたかったのだ。
「……なぁ、エルヴィンよ」
「どうした?」
 久しぶりに彼女の名前を口にしてみた。やけに早鐘を打つ鼓動。
「海は、元気でやってるか?」
 ごく自然に聞いたはずなのに、らしくもなく声が震えた気がして、胸が切なく痛む。とにかくなんでもいいから、海の行先を知りたかった。しかし、思い出に逃げていたリヴァイを待っていたのは恐ろしい現実だった。
「海なら、退職してしまったよ。非常に残念だった……」
「は……?? あいつが、辞めた……だと? 海が……」
 まさか、だとすれば……男はショックで目の前が一気に真っ暗になり、うっかり持っていたスマホを落としかけた。
「どうした、海と、何かあったのか?」
「……いや、」
「お前が女という生き物を気にかけるとは、後腐れのない身体だけの付き合いばかりだったお前が、よっぽどの事があったのかと思ってるが」
「オイオイオイオイ、勘違いすんじゃねぇ、確かに体の付き合いは会った。だが俺なりに真面目に交際してるつもりだったんだがな」
「しかし、今まで君が泣かせてきた相手の女性は、そうとは思わなかったみたいだが、」
「オイ、誤解を招くような発言はやめろ」
 女に対しての扱いの酷さはこのかつての先輩であり付き合いの長い友人も重々理解しているだろう。にこれ以上嘘はつけない。
 男は、元上司としてではなく、一人と男として彼女を見つめていたことを自白した。愛も告げずに、出向してきた部下の海を幾度も抱いてしまったことを洗いざらい。
「お前……仕事では女には手を出さないと言っていたのにな。しかも私の部下に。自分から動くとは……余程、海はお前の理に適った相手だったか?」
 気に入ったのか。それは、体か、それともこの男は心のことを言っているのか。黙り込む男にエルヴィンは続けた。
「確かに、海は素直で無邪気で、先輩後輩、みんなからいつも可愛がられていたな。正直、未だに独身でいるお前もいい加減身を固め、結婚して家庭を持つ年頃だろう。海をいいと思う男も、多少は居たぞ。あの子は性格も品行方正、愛想もよかった。ついでに、海をお前にどうかと賭けてみたが・・・どうやら上手くいかなかったみたいだが」
「長年の恨みが回ってきたんだろうな」
「そうだろうな。お前のこれまでの業が返ってきた、自業自得だろう。俺の部下にまで手を出すとは」
「オイオイオイ、その言い方は聞き捨てならねぇな。合意の上に決まってるだろ、それに求めて来たのは向こうだ」
「そうか、俄に信じがたい話だ、見た目や仕事ぶりからして奔放そうに見えないあの子が、お前に縋るなんて。だがな、出向先から戻って来た海は絶対に切らないと言っていた髪をばっさり切って元々細い子なのにすっかり痩せ細って、そのまま倒れた。うわ言でお前の名をしきりに呼んでいたのを俺は聞いた」
 男は鈍器で頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。自分のせいで海はすっかり精神的に追いやられ、倒れてしまったのだと激しく後悔した。
「海……」
「お前、まさか海はただの……「んなわけねぇだろ!! あいつは……あいつの事は、本気で……惚れちまった」
 それは後悔となり、追いかけるように幾重にも連なる波となって男を容赦なく責め立てる。
「そうか。お前がそんな風に言うとは、初めてで驚いたよ。まあ、それで海には元気になるまで静養しろと、無理やり休職させていたんだが、俺に迷惑はかけられないと、ある日退職届を郵送で送ってきてな、退職希望を出した人間を引き留める法律はない。そのまま辞めてしまった」
 その後、エルヴィンと何を話したか覚えていない。男は電話を切って深くため息をついた。
 ――……ああ、これで、もう海と男を繋ぐものは何もかも無くなったのだと。柔らかな髪も、はにかむ笑顔も、どこかクセのある嬌声も、敏感で柔らかな身体も、みんな、みんな消えてしまった。
「情けねぇな」
 男はらしくもなく、暗闇の部屋、デスクトップが光るモニターをただ見つめ視界が滲むのを感じた。スマホを手に、また叶わない事をする。
――・・・「この電話は現在使われておりません」
「(クソが、)」
 彼女が心を病んでしまったのは自分のせいだ。心を病んでいるのなら、これ以上の深追いはしてはいけない。罪悪感で吐きそうだった。
 リヴァイは静かにあのひと夏の記憶を思い返していた。空港から立ち去る時、頭に過ぎったのは後悔と、そして、海の長くて緩やかな揺れる長い髪がなくなってしまった事への計り知れないショックだった。
 リヴァイは自分が海に振られたと立ち去る背中にそう思った。口だけの動きで海が何を言おうとしたか理解出来た。
「さよなら、主任。……いえ、リヴァイ……さん」だ。
 女に振られる事は、正直これまで不自由せずに過ごしてきた男にとって、生まれて此方初めての事で、こんなにもショックでそして、恋焦がれて眠れなくなるほど苦しいなんて知らなかった。何も言わないで、泣いてばかりの海がただ、見ていられなくて、そして何もしてやれない自分が余計にムカついて腹が立って仕方なくて。
 初めて海を抱いたあの雨の日のこと。長い髪を伝い落ちる雫も、自分が与える快楽に泣きじゃくった死にそうな声も真っ白な肌も鮮明に覚えている。
 とうに成人も済ませた酸いも甘いも知り尽くした大人だというのに……。現に今自分がこんなにも、心惹かれているのだ。
 性格と同じく素直な自分よりも小さな身体、どこもかしこも柔らかい肢体、可愛い声、愛しくて愛しくて、最低だと知りながら男の義務も忘れて久方ぶりの行為にテンションも上がり、容赦なく抱き潰し、そして、今も疼いて止まない。
 二度目の夜はたまらず彼女が気を失ってからもいつか居なくなってしまう海に危機感を覚えてずっと行為を続けてしまった。そのまま妊娠させてもいいと思った。もちろん責任は持つし、仕事も辞めて一緒にこっちに来てくれても良かったから。
 しかし、冬となり1人で眠る夜は酷く肌寒かった。おかげで今もよく眠れないし、目の下には絶えずクマができており、ただでさえあまり良くない人相なのに余計にガラが悪く見えた。リヴァイはパソコンを消すといつまでも海の居ないフロアにいても仕方が無いと、静かにバッグを手にオフィスを後にした。

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To be continue…

2018.08.20
2020.08.12
2021.01.08加筆修正




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