TIME | ナノ
─Final─

「23時53分、臨終です」
「クシェル……」
 静かな病室。そこで告げられた言葉は終わりを意味していた。それは永遠の別れ。突然すぎた別れに悲痛な男の声がした。男が海の元から離れて年が明けて、寒さが日に日に和らいで。それでも2人はいつも小さな端末で繋がっていた。あまり連絡はマメではない男からしたら男なりに海と離れまいと頑張っている方で、海とのやり取りを続けながらも次第に日も長くなり、暦の上では春に差し掛かっていた。
 そんな矢先、長い間闘病していた美しい母は穏やかな表情を浮かべ、静かに永遠の眠りについた。
 医師からの言葉にベッドに膝から崩れ落ちた叔父の姿。いつも仕事で世界を飛びまわり、おちゃらけて飄々とした男が涙を流して自分の妹の死を嘆き悲しんでいる。
「(母さん……まだ、何にも、恩返しもさせてくれねぇまま……)」
 男は母親の頭を撫で、病室の窓から空を見上げた。不思議と悲しくはなかった。ただ、母の穏やかな顔に男は苦しむことなく逝けたこと。ただ、安らかである事を願った。

 ▼

 葬儀は粛々と、静かに行われる事になった。思った以上にダメージを受けていたのは自分ではなく叔父であり、男が喪主を引き受けることになった。勿論ミカサにも連絡を送り、ミカサが遠方から来る事になった。しかし、男は敢えて海に連絡するのを躊躇った。
 こんな今の自分の弱い姿を見せたくない。くだらないプライドが邪魔をする。海を思えば堪らなくなり、悲しみを保ってきた理性が崩れ、喪主として振る舞わねばならない中で海の優しさに甘えてしまいそうになるから。
 本当は母親にもちゃんと目に見える形で海を紹介したかった。写メの海を見せて、あなたには勿体ないくらいのかわい子ちゃんねと美しく微笑み、海の姿を生で見たら、そしたら、もっと母親は安心してくれただろうか。こんな自分を愛してくれる人がやっと出来たことを。
 顔には出ないが海への恋慕を募らせて、強く願った。海に会いたい、その気持ちが一気に加速した。いつまで待てばいいのだろう。やはりそんなに気も長くない自分には耐えられない。海の居ない福岡にとてもじゃないが希望など見いだせないと思った。
 葬儀会館の一室の親族に宛てがわれた控え室。タバコを吸ってくるとケニーが居なくなると部屋は男だけになる。
 亡くなった母親が病院から運ばれ綺麗な死化粧を施して棺に納めるとの事で、待機していた控え室をコンコンと確かに小さくノックする音が聞こえた。通夜はまだの筈だし、ホールもまだ何も準備もされておらず、この時間だ。一体誰が。
「はい」
 しかし、返事はない。スタッフか?訝しげに勢いよくドアを開けると、そこに居たのは。
「きゃっ!」
 ドアの開いた勢いに耐えきれず思い切りリヴァイの胸に飛び込んできたのは。ふわりとした長い髪、もう忘れない彼女を象徴するジャンヌアルテスの香りを抱き留めると、そこに居たのは紛れもなく恋焦がれた海の姿だった。しかも驚いたことに海の肩上で切りそろえていた髪が夏の時と同じ腰の長さまで伸びている。
「海……?」
「リヴァイ……あの、」
 しかし、ここでは母の葬儀の準備をする葬儀社の人間もいるし二人きりではない。場所を変えようとまだ何の準備もされていないホールへ海を連れていくと近くにあった椅子に腰掛た。今の葬儀は有難いことに正座ではなく椅子に腰掛けるらしい。海は大袈裟な程の大荷物を抱えてリヴァイの目の前に現れた。久々に身にまとっていた服もきっちりしたタイトな喪服姿でいることにリヴァイは誰に聞いたのか容易く理解した。
「誰から聞いた。何でここに来た?」
「あ、あの……」
「ミカサだな、あの根暗女め」
 ミカサの姿が脳裏に過ぎる。思えば海を溺愛していたミカサに敢えて海には言うなと釘は刺さなかった。しかし、自分のことをあまり良くは思わないミカサのことだ。結局そのまま自分の母親が死んだことを海に伝えたのだろう。
「ごめんなさい……リヴァイ……。違うの、ミカサは悪くないのっ、私が、どこかに出かけようとしていたミカサにたまたま聞いたの。そしたら急にリヴァイさんの所に行くって言うし、喪服のクリーニングを持ってて……それで、嫌な予感がして、どうしてリヴァイさんの居る県に行くのかって、問い詰めて、そしたら……心配で、いても経っても居られなくて……っ」
 海も涙を浮かべ、まるで泣かない泣けない男の代わりに寄り添うかのように黒いハンカチで顔を覆っている。ちゃんとした服装に腰まである長い髪がハラハラと揺れる。思わず触れると、それは確かにサラサラとした質感だが、地毛ではなく人工的に付けたものだと知るも、出会った頃を思い返し、海は髪の長い方が好きだと思った。病気の海がはるばる会いに来てくれてそれだけで男は嬉しかったが、しかし、亡き母親の手前、喜びよりも安堵の方が大きく、その表情は読めない。
「そうか……。本当はお前に隠してたのにな」
「どうして?」
「……お前に、こんな顔を見せたくなかったからだ」
 父親の居ない自分にとって唯一の肉親だった母親。女手一つで苦労してきた母を喪った悲しみは計り知れない、それに、海も父子家庭で遅かれ早かれいつか父親と離れる日がくるその疑似体験を未だ若い海にさせたくもないと言う自分自身のエゴ。しかし、海は首を横に振り、頑なにそれを拒む。
「リヴァイ……私は、どんな姿でも、どんなに情けない時でもリヴァイのそばに居たいよ……年上だからとかそんなの気にしないで、だから、強がらないでよ。もっと、見せて、弱いところも情けないなんて言わない、思わないから……」
 優しい言葉と愛しい温もりに包まれて男はうっかりらしくもなく視界が滲むのを感じた。母がもう居ない。敢えてその気持ちと無視し続けてきた感情に支配されそうになり、海の肩に顔を埋めると、海は優しく男の頭を撫でた。
「あのね。私、家を出てきたの。だからね、これからは……ずっと、リヴァイの傍にいるから……」
 そうして、ふと顔をあげれば駐車場が見える窓からは見慣れた海の真っ白に輝くセダンがある。まさか……!男が立ち上がろうとするのを遮り海はニッコリ微笑んだ。
「お前……まさかここまで運転してきたのか?」
「うん。だって、こっちで暮らすのに車なくても困らないけど、でも、車って何かと使えるでしょ?」
 日本海側の豪雪地帯からここの日本列島ではない都市まで車で来るなんて・・・有料道路を使ったとしても半日以上はかかるはずだが、それでもここまで来てくれたのか。リヴァイは必死の思いで会いにきてくれた海の深い愛にただ胸を打たれるばかりだった。
「海……。ありがとうな」
 愛しさが溢れ、許されるなら今すぐ抱きしめて小さな唇を塞ぎたいと思った。しかし、今はそんな甘い空気に浸っている場合ではない。最後に母を見送らねばならない。男は気まずそうに声をかけようとしている葬儀社のスタッフの声に振り向いた。
「海。お前も手伝ってくれるか?」
「うん、もちろん。受け付けとか事務的なことなら任せて」
「こんな形にはなっちまったが、親戚にも俺の妻として改めて紹介する。お前にしか頼めない」
「もちろん、」
 差し伸べた手を、今度は離さない。男は海に手を伸ばし、海も微笑んでその手を取り二人は歩き出した。
リヴァイの目には人知れずに涙が浮かんでいた。

 ▼

 その後、海のサポートもあり、葬儀は無事に終わり、男はひと仕事を終えることが出来た。本当は母への哀悼を示すためにこんな時に結婚なんて言っている場合じゃないのは分かる。しかし、再び海外に旅立つケニーの提案もあり、2人はひとまず入籍だけを終える事にしたのだった。
 式や新婚旅行やら指輪やら、形式ばった面倒なことは後回しにし、今はふたりの時間を。荷物を車につめこんで飛び出した海は彼のマンションで海・アッカーマンとして静かに暮らし始めた。
「リヴァイ、忘れ物はない?」
「ああ、大丈夫だ」
 ある晴れた日のこと。季節はすっかり温暖な春になり、エプロン姿の海がスーツを纏い玄関に立つ男を呼び止めた。
 色々な出来事を経て、ようやく安定した暮らしを始めたふたり。こんな風にまた見つめ合える日がやってくることを男は噛み締め、誰よりも愛しい存在を抱きしめ、そっとキスをして愛を贈れば、海も恥じらいながらも同じ愛を返してくれて。
「駄目だ。このまま仕事サボりたくなっちまうな……」
「だ、ダメですよ。ちゃんと働いてきてください」
「お前も今日パートの面接だろ?面接終わったら連絡よこせよ」
「うん」
 失われた時間を、失った海をもう取り戻すことは出来ないと悔やむ日々を重ねて、男は1人初めて得たこの気持ちを取り戻せない時間の中で漸く手にすることが出来た。目の前には最愛の人がいる。失われゆく時の流れの中で
 残された未来の中やっと掴んだ大切な人をもう手放したりはしない。名残惜しむように二人はしっかり抱き合い、そして、海は男の背を見送った。
 二人がようやく取り戻したこの時間。この時間がこれからも永遠に続くようにとその背中に願いを馳せて。海はいつまでも笑顔で男を見送った。あの夏の、愛しさと切なさに潰され流した涙はもう、決して流れることは無いのだろう。

 
Fin.

2018.12.31
2021.01.09加筆修正

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