THE LAST BALLAD | ナノ

#01 忘却の鐘

 この世界がこんなにも美しくて、そして広いことを知らないままでいた。そう、今まで取り巻いていた世界があまりにも狭過ぎた。光さえも届かない遮られたアンダーグラウンドに身を置いていたから。
 生まれるずっと前からこの世界は巨人という強大な存在に脅かされ、そして、支配されていた。
 やがて人類は巨人の脅威から逃れる為に三重の壁を築き上げそこに逃げ込み、世界はそこを活動領域とし、100年の安寧を保ち密やかに繁栄していた。
 三重の壁にはそれぞれ名前があり、様々な人々が穏やかに壁の中ではあるが不自由ながらも疑いもせずに慎ましく暮らしていた。
 1つ、最も外側に位置し、巨人の脅威に晒される可能性のあるウォール・マリア
 1つ、最も中央に位置するウォール・ローゼ
 1つ、最も内陸に位置し、この壁の中枢を担う王都を守るように存在するこの壁の世界で最も安全だと言われるウォール・シーナ

 なぜこの世界が巨人に支配されているのか、なぜ巨人が人を食べるのか、この壁はどのようにして造られたのか、壁の外には何があるのか誰も疑問に思わないし、壁の外の世界を知りたいなどと、口に出すものは居なかった。
 生まれた時からこの壁から見える空を眺めるのは当たり前で、何故この世界を覆っているのか考えもしなかった。そう、それが当たり前であり、それがこの世界の常であったから。
 三重の壁に覆われたこの世界の最も外側の壁にあるウォール・マリアから更に突出した南城塞都市、シガンシナ区。壁の世界の中央に位置する王都から一番離れた人類の活動領域の最前線となる場所。
 人類を捕食する巨人は人の密集する場所を好む習性がある。よって、真っ先にここが破壊されればシガンシナ区は瞬く間に巨人の餌食となるいわば囮である。
 しかし、それでは誰も住まなくなる、よって王政府はそこを上手く利用して巨人の脅威に晒されるリスクのあるここに住む者を「最も勇敢な者」と称え、シガンシナ区への居住を促したのだ。なので常駐する兵も、それに見合うだけの安全は保持されている。
 シガンシナ区には人々の当たり前に営まれる日常が、疑いもなく射し込む朝日が存在していた。
 そう。今もあの日の空の美しさを今も覚えている。いつもと同じ、それはとても穏やかで平和な朝だった。当たり前のようにこの日々はこれからも過ぎてゆくと思っていた。信じていた。
 住人達は穏やかな世界で過ごすことに、この壁に守られているから大丈夫だと、すっかり安心して、固執して、だからこそ麻痺していたのだ。当たり前の日々など、約束された安息もこの世界には何処にもないと言うのに。
 過ぎ去った昨日だけが確かに安らかだった事だけを記憶して。人々はまた眠りについた。太陽が毎日登るようにまた明日も平穏な日々が始まるのだと、疑いもせずに。

「お母さん! おはよう」

 鼻歌を歌いながらふわりと腰まで伸ばした長い髪が揺れる。階段を駆け降り姿を見せたウミと呼ばれた少女とも女性ともどちらにも捉えられる顔立ちをした1人の女が自らを命懸けで産んだ唯一の肉親である母親を呼び、優しく微笑んだ。

「あら、おはよう」

 車椅子を器用に動かし、母親は2人ぶんの朝食を用意していた。壁に囲まれたこの世界の資源は限られている。お世辞にも豪華とは言い難い質素な食卓だがテーブルに向かい合い傍から見れば普通の母子家庭の光景。
 しかし、ウミの母親はあるはずの両足が無い。その傷は今も生々しくウミの視界に映る。不自由、それでも母は娘の介護を受けて懸命に生きていた。

「今日もいい天気ね」
「うん」
「さ、頂きましょうか」

 その時、開かれた窓からはけたたましく鐘の音が寝起きの頭に響き渡り、2人は食事の手を止める。

「あら? そう言えば今朝って……」

 聞き慣れたその音とその何気ない母の言葉にウミはパンを食べる手をピタリと止めた。姿見えなくとも、いつも遠くから思いを馳せていた。外の世界に出るにはいつもこのシガンシナ区の門を抜けるから。聞こえた鐘に騒ぎ立つ人たち、しかし、それに反してウミは頑なに窓を閉ざした。

「調査兵団が璧外調査から帰ってきたぞ!」

 調査兵団という単語にウミはかつての自分を思い返していた。この壁の世界に存在する3つの兵団。内地にて王を守る選ばれた者のみが許される危険とは無縁の安全な憲兵団、壁の補強や有事の際には住民の避難完了まで巨人達から民間人を守る名目を担う駐屯兵団、そしてその中で唯一、壁外調査と言う名目で唯一壁外に遠征し、人類の拡大政策を担い、そして最も巨人に遭うリスクの高い危険な兵団。

 その英雄達の帰還と唯一外をつなぐ門が開くのを知らせる鐘の音だった。

 思い返して胸が痛む。それは若く、あまりにも無邪気に、そして、何も知らなかったあの頃の自分。瞳を閉じて、それはあまりにも生々しい苦い過去にただ立ち尽くした。頬を伝う雨、血なまぐさい人肉の香り、この五感に染みついている。
 そんなウミを気遣うように慈しむように母親は微笑む。指折り数えた日々を描いて瞳を閉じて思い浮かべるのは。そっと腹部に手を置き今は遠くの人をただ深く思うのだった。例えどんな場所にいてもどんなに離れていても思う気持ちは変わらない。だけど、もう少しあと少し。指折り数えた日々。ウミは全ての愛を包み込むようにまた優しく微笑んだ。

「大丈夫よ、あなたはあなたのまま。きっと、天国のお父さんも同じことを願っているわ」
「お母さん……うん。そう、だよね」

 天国の父親……。そうだ、天を見上げ、ウミはもう居ない正義感の強く、そしていつも勇敢だった広い背中を思い出した。いつも大きな手が全てを包み込んでくれた。誰よりも優しく、誰よりも勇ましくそして、誰よりも愛おしい人と、自分が巡り会うきっかけを繋いでくれた人。
 偉大なる父。そして、そう、親子は父親と言うかけがえのないもの、大黒柱を失ってから必死にここで生きてきた。いつ巨人の脅威に晒されるかもわからないこの地で。
 しかし、この壁の外には人を食らう巨人の他にまだ見知らぬ自由がある。この突出したシガンシナ区ならその自由を少しだけ垣間見る事が出来る。その時。外から聞き慣れた少年の言葉が聞こえた。

「エレン? エレンだわ」
「あら、エレンったらまたカルラに怒られてるのかしら?」

 隣近所の幼なじみと言う存在よりもどちらかと言えば可愛い弟のような存在の彼。意思の強い瞳を輝かせ必死に何かを訴えている。
 どうやらまた外で母親のカルラと揉めているらしい。母親と並んで出窓からその様子を伺うように覗き込むと、玄関の前の階段でカルラは神妙そうな顔でエレンを叱りつけていた。いつものやり取り。エレンの夢。ウミや幼なじみのアルミンにも同じことを打ち明けしかしその夢を止められたことを母親にも反対されているのだろう。

「エレンったら、壁の外に出たくてたまらないのね。調査兵団なんて憧れるものじゃないのに……今回の壁外調査でもきっと100人の内の八割が死んだんでしょうから……いつまでもいつまでも、何の成果も得られず、被害だけ出して無駄に人を死なせる税金泥棒と罵られて」

「それでも、進み続けるのね、あの翼は最後の一人になるまで」

 車椅子を動かし巨人に食われて失った太ももから先の足を見つめてひとりごちた母親。そして、それに頷くウミ。自由の翼という名の翼に縛られた命知らずの集団……調査兵団。
 痛いほどに気持ちが分かる。ウミはたまらず自分の先を歩み巨人に襲われながらも何とか生きながらえた母親を抱き締めた。

「そうだよね。お母さん、巨人は……お母さんの足を奪った」

 人類の為と謳い、人間の活動領域を広げるために果敢に壁の外に飛び出すも、その戦死率は三兵団の中て群を抜いている。確かに自由な壁の外へ出る事が出来たとしても、人など巨人の前ではただの食糧となるだけの無力な存在。
 壁外調査の度に見知った人も知り合いも新人も、皆変わり果てた姿で帰ってきた。挑めば挑むほど危険は増し、そして何の成果もあげられず、果敢に挑んでは命を散らし、そしてただいたずらに次々と人が死んでゆく。もし、万が一、仮に助かったとしても四肢の欠損は免れないのだ。そう、目の前の亡き母親のように。自由とは名ばかりのそんな集団に入りたいとは。

「そして、私のお父さんは……私の大切な人は、みんな巨人に、殺されたのよ」
「ウミ……」

 翼など意味を持たない。自由など、ただ死へ向かうだけだ。ロウで固めた翼で太陽に近づき過ぎたゆえに地に落ちた者がいるように、自らもその翼をへし折られるだけ。翼がそのまま天へ誘うだけ。

「お母さん。だから、私、もう嫌だよ。嫌だからね? もう2度と、巨人なんて……見たくない」
――「オレには家畜でも平気でいられる人間の方がよっぽど間抜けに見えるね!!」

 エレンにかつての無謀だった頃の若いだけが全てだった自分を重ねる。勇敢と無謀は違うと言うのに。しかし、どうかまだ幼いだけの彼だけは間違って欲しくはない。自由を求めすぎるあまり死に急ぐなど。

「大丈夫、大丈夫よ、ウミ。あなたはもう戦わなくていいの、あなたはもう普通の子よ」

 祈るようなウミの言葉にまるで反発するかのようなエレンの声。1人、まだ幼いだけの猪突猛進さだけで突っ走るエレンを上から見つめてウミは走り出した幼い背中を見つめた。
 ただでさえ危なっかしい息子をより危険な場所にやれない。正義感が人並み以上、いや、異常なほどにまで強いエレンは誰よりも息子を思う母親のカルラの必死の説得も聞かずに走り出してしまった。
 まだ頼りない背中。その背中が、いつか自由の翼を背負うなど想像もつかない……。ぼんやりしていると視線を感じ、それを辿れば黒曜石のような輝きがこちらを見上げて来た。

「ミカサ!!」

 ミカサ・アッカーマン。
どこか大人びた容姿に真っ直ぐ伸びた絹のような黒い髪、黒い瞳、人目を引く美しいその独特の色彩。彼女にしかその色彩を持つことは出来ない。エレンに救われたあの日からミカサの全てはエレンだった。ウミが声をかけるなりミカサはただ、頷くとエレンの後を追いかけて走り出してしまった。

 エレンと同じ家から出てきたが決してふたりは姉弟ではない。家族を強盗に殺され、危うく地下街に売られそうになったところをエレンに救われたそうだ。
 エレンの人1倍強い正義感がその強盗を殺したことによって居場所をなくしたミカサはグリシャに導かれ、イェーガー家の養子となっていたのだ。エレンとミカサ、姉弟のような2人はかつての自分と同じようにお互いを思い支え合い生きている姿にあの人を重ねた。

 そう、今も背中に自由への翼を背負い戦い続ける人を。

「カルラさん……! 大丈夫?」
「あら、おはようウミ。朝からうるさくてごめんなさいね・・・そう言えば体調は?外に出て大丈夫なの?」
「ええ。私はいいんです。それよりもエレンは……」

 カルラが心配になり、母に頼まれウミは慌てて階段を駆け下り玄関から外へ飛び出した。心配するようなウミの言葉にカルラは悲痛に顔を歪める。そもそも隣近所の自分たち一家が幼い彼の人格形成に良くない影響を与えたのだとしたら。

「気にしないでちょうだい。ウミ達の家族は何も悪くないんだから」
「そんなことないですよ、カルラさん、責任は私たちにあります。そもそも調査兵団に憧れ出したのは私たち家族のせいなんですから」

 果敢に挑んだ過去、壁の外の自由を求めた代償は大きすぎた。しかし、どうかそれを恥じないで欲しい。落ち込むウミを宥めるようにカルラはたまらずウミの小さな身体を抱き締めた。

「ウミ、どうか、そんな風に言わないで。あんた達も、家族もみんな、私が若い頃よりも皆調査兵団として最前線で立派に活躍してきたじゃないか。そんなことを言ったら天国のお父さんも悲しむだろう?」
「カルラさん」

 そっと、労るような手つきで自分の手を握り締めてくれるカルラの優しさにウミは感極まった。こんなふうに優しく自分に触れてくれる人など、親以外にもう居ないと思っていた。

「けど、エレンは、あの子は違う。あの子は危なっかしい所があるから」
「ええ、わかっています。だからこそ、そんな危険な所になんて行かせませんから。命が幾つあっても足りません!今晩、私と母からもエレンにもう一度よく言って聞かせますね」
「そうだね、私からでは全然言うことも聞いてくれなくて。ウミにしか頼めないよ。お願いするね」

 巨人の恐ろしさをよく体感した身だからこそ、何としてでもあの無謀な少年を止めなければ。ウミは優しい笑顔から一転、意志を内に秘めた強い眼差しをカルラに向けて約束した。
 昔から気前もよく美人で、美しい面影を残し母親としての凛とした強さを持つエレンの母親。そのエレンも母親に似て可愛らしい顔つきをしていて、ウミにとっても可愛いひと回りも下の弟のような存在。そんな可愛い存在に自分と同じ道を歩ませては行けない。それはわかり切ったことだ。
 調査兵団はあまりにも過酷すぎる。それならばまだ壁の補強を行い有事の際に人民の避難の為に時間稼ぎとして戦う駐屯兵団の方がまだマシだとそう思ってしまう。平和に酒浸りしている、そう、幼い頃から顔なじみでもあるハンネスのような明るい人達の集う駐屯兵団の方がまだ。
 あんな思いはもうこりごりだ。だから自分は願うのだ。どうかこのまま安寧が続くようにと。
 そう願ったのに、祈りははなぜこうも虚しく散るものなのか。どうして、ただ、平和に穏やかに暮らしたいと願い逃げ出した自分はやはり咎人なのだろうか。
 静寂を引き裂くように眩い閃光が落ちた。まるで雷のように、しかし、天気は雲ひとつもない空。次にドオオオン!!と言う耳をつんざくような轟音が平和な地に響き渡る。広く晴れ渡る何も変わらないシガンシナの美しい空を見上げ、地面から伝わる振動にウミはぐらつきながら必死に踏ん張るとカルラを抱きとめた。

「何だい、この音は……?」

 これはなんだ?爆発だろうか。カルラを守るようにしっかり踏みしめていないと子供ぐらいは簡単に宙に飛び上がりそうな強いその振動にいつも巨人からの侵入を阻んでくれた見下すように遥か高くそびえ立ついつもと何も変わらぬ壁に縋るよう見据えた。
 近くの看板が風もないのにカランカランと揺れる。目前にそびえる壁はいつもと何も変わらぬはずなのに、ウミは次第に不安に包まれながら視界に不気味な煙と共にこちらを見つめる赤い物体を見つけた。

「え……?」

 悲鳴と慟哭が響く中で、ウミは開いた口が塞がらなかった。思考が止まる。確かに視力もそこそこ悪くない自分は見たのだ。あの50メートルはある壁を遥かに超える巨大な脅威を。

「うそ、でしょ………う?」

 今まで生きてきて未だかつて見たこともない安寧のために造り上げた50メートルの壁からこちらを覗き込む巨大なあれはなんだ?熱気を放つ全身筋肉組織剥き出しのあれは、巨人なのか?いや、違う。ただの巨人ではない。

「巨人だ……」

 今までも自分は今までいろんな巨人と対峙してきたが、大きくても15メートル級しかお目にかからなかった。倒した中でそれが一番強大だと。しかし、あれは違う。あれは規格を遥かに超えている。間違いなく奇行種だと、それだけは理解した瞬間、その巨人はうめき声と共に行動を起こした。

――ドゴオオオオン!!

 そう、巨人の侵入を阻み続けてきた壁を振りかぶった右足で思い切り蹴りあげたのだ。しかも、それは狙ったかのように壁とは名ばかりの脆くなった部分を的確に。

「危ない!」

 聞こえた声に反射的にウミが顔を上げた時、飛び込んできたカルラの必死の形相、そして、巨大な巨人が壁を蹴りあげたことによる衝撃で破壊された壁の破片がまるで投石のように鋭い雨とし化してシガンシナ区一帯に降り注いだのだ!
 激しい轟音とおびただしい量の悲鳴、ウミはこれは悪い夢の続きだと思った。しかし、これは紛れもなく巨人から逃げ切った先に待ち受けた悪夢の続きなのだと。今まで蹂躙してきた巨人たちの報復だ。奴らは調査兵団だけだは飽き足らず、ついに100年の安寧をぶっ壊し襲撃してきたのだ。
 壁に守られてきたこの世界の安寧はこの日を持って崩れ去ったのだと、地面に倒れ込み降り注ぐ岩の破片を浴びた衝撃と焼け付くような熱風の中でウミは堪らず現実から瞳を閉じて実感したのだった。
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