夢のまぼろし





俺は人前で泣いたことがない。
泣くという行為は自分の弱さを他人に露呈することと同じことで、確たる地位が約束されている俺にとって、他人に弱さを知られるということはあってはならないことだ。
両親だろうが幼馴染だろうが、実家の使用人だろうが、ただの一人に対しても俺は決して泣いた姿を見せたことはない。
俺が生まれる前から家に仕えている執事長ですら「坊ちゃんの泣いているところなど夜泣きしなくなってからは一度も見ていません」と陰で言っていたのだから間違いない。
けれど、ただ一人、俺の泣き顔を見たことがある奴がいる。それも、真正面から――…。




『行くなよ』

それまで触れていた体温が急に離れていくのを感じて、俺は手を伸ばす。
それまで心を満たしていた幸福感は一気に霧散して、俺の心に残っているのは孤独に対する恐怖感だ。

(この手を離せばまた、行ってしまう)

引き留める俺の顔を見たあいつは、それから困ったような笑顔を浮かべる。
次から次に流れてくる涙は、これまでの人生で溜めに溜めていたものが溢れているのではないかと思うほど止めどなく、多分かなり不細工な顔になってしまっているだろう。
他人の前での泣き方すらわからない俺の泣き顔を知っているのは、この世界のこいつだけ。

『もう、起きないといけないんだ』

引き留めようとする俺のことを抱きしめて、頭を撫でる。
この抱擁が別れの合図だと理解してしまっている俺は、けれど往生際悪くきつく抱き返して離れないようしがみつく。
俺の涙がこいつの肩をぐしゅぐしゅに濡らしてしまうのも、いつものことだった。

『夢はもう終わりだ』

無情にも俺のことを思い切り引きはがして、あいつは今度こそ白く煙る景色の向こう側へと駆けて行った。

『行くな、よ…置いて、くな……っ』

一人残された俺は、真っ白な地面に膝から崩れて、泣き叫ぶ。
足音もしない、他の雑多な物音もしない世界で、俺が叫ぶ音だけが延々と響く。
そして、世界は黒く塗りつぶされた。




「っ……っ…!」

目が覚めると、見慣れた天井が歪んで見えた。
目尻からこめかみにかけてぐしょぐしょに濡れてしまっていて、ところどころぱりぱりと乾いた部分もある。
幾筋もそこを流れたのだろう、俺の髪と枕カバーはしっとりと涙を吸って重くなっていた。

(また、あの夢か…)

ここ最近頻繁に見るようになった夢。
見覚えのない壁のない白い部屋で、俺はそいつとただ二人の時間を過ごす。
触れ合ったりキスをしたり、一緒に食事をしたり昼寝をしたりして、俺たちは時間をただゆったりと過ごす。
そいつはその空間を“夢の世界”だと理解していて、俺が目覚めなければならない時間になれば俺を置いて消えていく。
どんなに俺が引き留めても、縋っても、あいつは俺を連れて行くことも俺と共に残ることもしない。
それはそうだ、夢から覚めなければ俺はそのまま目覚めなくなるかもしれないのだ。
それでも構わないとさえ思ってしまうのは、俺があいつに片想いをしているから。
そして、夢と現実は違うことを理解しているから。

「なんで…、俺を連れてってくれねぇんだ…」

目覚めなくてもいいのだ。
そうすれば、現実のようにあいつに対して反抗的な態度を取らなくてもいいのに。
現実のあいつと夢のあいつが別人だと実感せずに済むというのに。

「何で、置いてくんだ、くそ風紀…!」

夢の中でも夢から覚めても、涙は止まらない。




「…よう」

登校時間ギリギリまでしっかりと目元を冷やして腫れを引かせた俺がエレベーターホールで最初に遭遇したのは、例に漏れずあいつだった。
風紀委員長であるあいつと生徒会長である俺の寮部屋は近い。
そのためたいてい真っ先に遭遇する相手なのだが、夢のあとに会う日にはいつも俺は身構えてしまう。

「用もなく俺に話しかけるな、クソ風紀」
「お前…」

まだ十分に腫れぼったさが引いていない顔をあまり見られないように顔をそむけて癖になりつつあるいつもの悪態をつくと、頭にぽんと軽い何かが乗せられた。
暖かいそれが労わるように頭を撫でてきて、さっきやっとの思いで止めた涙がまた溢れそうになった。
こいつは時々、俺の頭を撫でる。
それが夢のあとに来ることもあり、その時俺は必死になって唇を噛みしめて感情の波を堪える。

(同じ手だ……でも、違う…)

触れてくる手に縋って、目の前のこの体に身を委ねてしまえればどれだけ幸せだろう。
夢の中のように「好きだ」と素直に言葉を口にして、気の赴くままにキスをできればどれだけ満たされるだろう。
けれど、縋りつけば指を絡めてくれる手も、抱きしめてくれる腕も、「俺もだ」と返してくれる声も、愛しむように与えられるキスも、全ては夢の中の“あいつ”だ。
今俺の頭を撫でているこいつとは違う、俺が望み描いて創り出した“別人”だ。

「っ、俺に気安く触ってんじゃねぇ!」

触れてくる手を振り払って、背を向ける。
おい、と俺を呼ぶその呼び方すら夢の中とは違っていて、耳を塞ぎたくなる。

(違う、違う、違う違う違う!)

ほとんど走るようなスピードで俺は特別棟へと向かった。
その三階にある生徒会室には、さすがに他の役員もこんな早朝には来ない。
生徒会室の扉を開けて、ロックをかけて、一目散に奥の仮眠室へと向かった。

「っ、ふ……ぅ…ッ」

もう、限界だった。

「会いてぇ、」

扉を背にして床へと崩れ落ちる。
あの夢のように涙が次から次に流れ出てきて、満足に呼吸もできないほど喉が震えた。

「会いてえ……あいて、ぇ…よ……」

好きな相手はあいつだ。
けれど夢の中のあいつと共にいればいるほど、そちらに心が向いてしまう。
俺にとっては同じあいつでも、別人だ。
そして俺がこんなにも焦がれてしまっているあいつは、現実には存在しない空想の産物だ。
夢の中でしか会えない、まぼろしでしかない。

「お前に会いてぇ…!」

現実のあいつを夢の中のあいつと重ねるのも、夢の中のあいつと現実のあいつを重ねるのも、等しく罪深いというのに――…。




「誰に会いたいんだ」

そんな俺の耳に入ってきたのは、静かな声だった。

「…――っっ!」

その声は、俺が耳に入れまいとした声で、俺が欲しくてたまらない声だ。

「お前は誰に会いたくて泣いているんだ」

聞かれた?
聞かれた。
知られた?
知られた。
何を。
どこから。
どうしてここに。
どうしたらいい。

「答えろ、お前はいつも泣いてるだろ。誰かに会いたくて泣いてるのか」
「ちがう」

何でよりによってお前がここに来るんだ。
他の奴ならごまかしもきくというのに、お前の声を聞いたせいで涙が止まらなくて、誰の耳にも明らかな鼻声になっているじゃないか。
一番来てほしくなかった以上に、来てくれた幸福感で、さらにそれを上回る罪悪感で心が苦しい。

「俺が泣かせたのか、お前を、また」
「また、って何のことだ…」

扉を挟んだ向こうのあいつが言っている意味が分からない。
だって俺は、誰にも泣き顔は見せたことがない。
あいつには泣いた後の顔を見られたのかもしれないが、あいつが「俺を泣かせた」と思うようなことはしていない。
だって、俺の泣き顔を見たことがあるのは――…

「夢を、見るんだ」
「…っ!?」

あいつは静かに話し始めた。




夢を見るんだ。
壁のない白い部屋で、お前と俺が一緒にいる夢。
お前は俺に何度も触れてきて、嬉しそうに笑う。
「好きだ」と言われて、「俺もだ」と返せば幸せだと全身で伝えてくるお前と、二人きりでいられる夢。
ずっとこのままで居れたらいいと思うのに、夢が終わる。
お前は泣きながら俺を引き留めてきて、でも俺は目を覚まさなくちゃいけなくて、お前を無理矢理離して目を覚ますんだ。
起きる直前までずっとお前が俺を呼んで泣いている声がする、そんな夢をずっと見ている。
俺は、夢でも現実でもお前を泣かせてるのか。




「…なん、だよ、それ……」

驚きで、涙は止まっていた。
扉につけていた背中は離れて、今は扉の向こうにいるであろうあいつのことを扉をどうにか透過して見ようとしてしまっているようだ。
だって、ありえない。
俺はあの夢のことを誰にも言っていないし、知られてもいないはずだ。
なのにどうして、あいつは、

「…変なことを言ったな」

混乱する俺の言葉をどうとったのか、扉の向こうから声が聞こえた。

「もうすぐ授業が始まる。担任には俺から言っておくな」

その言葉が、歩き始めた足音が、夢の中の別離の時とリンクして。
俺はとっさに仮眠室の扉を開けて、叫んでいた。

「…――行くな!」

その瞬間、世界が止まったようだった。

見たかったものがあった。
欲しかったものがあった。
願っていたものがあった。

俺の言葉で、あいつが思いとどまって、振り向いて、笑う。
その顔を見た俺の涙腺は、簡単に決壊してしまった。

「…前から思ってたけどお前、泣き顔不細工だな」

広げられた両手が俺を受け止めようとしているのだと理解するより先に、俺の脚は動いていた。
ファイリングした書類を薙ぎ払って、ペン立てを転がして、椅子を蹴飛ばして、がむしゃらに。

「…っ」

全力で飛びついた俺の勢いで少しだけふらついたあいつは、だけどすぐにきつく抱き返してきた。
痛いほど抱きしめられて、俺は首に腕を回して少しの隙間もできないように抱き縋る。
どんどん流れる涙が制服のシャツに染み広がっても、抱きしめてくる腕の力は少しも変わらない。

「いっ、み分かんねぇ…何でお前が俺の夢、知ってんだ……何でおんなじゆめ、みてんだ…っ、ありえねぇだろ…っっ」
「お前、夢の中じゃあんだけ可愛いのに、何でこっちはそんな文句ばっかなんだよ」

くつくつと笑うその振動が伝わってきて、それをもっと感じたくて頭を首元へとすりつけた。
抱きしめてくる腕の片方が俺の頭を撫でてきて、その感覚が今度こそ夢ではないのだと思うとまた涙が出てくる。
俺、こんなに泣き虫だったのかってくらい泣いている気がする。

「悪かった」
「ん?」
「お前のこと、置いていって」

抱きしめてくる腕の力が少し緩み、二人の間に少しだけ余裕ができる。
けれど離されるのかと思えばそうではなく、鼻がくっつきそうな距離で俺のことを見つめてきた。

「分かってる…起きないと二度と目が覚めないかもしれないからだろ」
「違う」

ほんの少し考えて言った俺の言葉は即座に否定された。
そうじゃないとしたら、どうしてこいつはあんなにも迷いなく目を覚ますことができたのだろう。
俺は、夢の最後も目覚めも、涙が枯渇するんじゃないかってほど泣いてしまうというのに。

「…現実のお前が泣いてるんじゃないかって思ったら、起きなくちゃなんねぇと思った」
「…え」
「確証はなかった…けど、お前が泣いてるような気がして、寝たまんまじゃいられなかった。だからエレベーターのところで待ち伏せしてたんだ」

あのエレベーターホールでの遭遇は偶然ではなかったのか。
そしていつも頭を撫でてくるのは、泣いているかもしれない俺を元気づけようとしていたのか。
何とも不器用で、何とも優しい。
胸のあたりがきゅうと苦しくなって、俺はまたこいつの首にしがみついた。

「もう、大丈夫だ」
「何がだ?」
「夢でも現実でもお前はいてくれるんだろ?なら、もう何も怖くねぇよ」
「そうだな…もうお前を置いていくことは絶対しない」
「ああ」

そのまま俺たちはしばらくの間抱き合って、それからキスをして、やっと笑いあった。




その後、例の夢を見ることはなかったけれど、多分それはずっと隣にこいつがいてくれるようになったからなんだと思う。

(俺様会長受けアンソロ企画提出作品)



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