*捏造甚だしい
*及川さんがヤンデレくさい




暖かい気候の日にうっかりジャージを体育館に忘れたことを思い出して、あとひとつ信号を抜ければ我が家というところで車をUターンさせた。青葉城西までの道のり約20キロ、最近ハマりだしたジャズを流して暇を潰す。鼻で歌えるほどに聴き込んでいるそれは、学校に着くまでの距離で丁度よく終わった。
運良く管理当番の先生がまだ残っていたから体育館の鍵を借りて扉をスライドさせる。どこに置いたかなと見渡すとパイプ椅子の背にかかっていた。男子バレー部と同じではないけれど、青と白の同じカラーリングのジャージ。それを掴んで体育館を出て、再び扉をスライドさせる。鍵を返しに行く途中でふと明かりのついている部活棟が視界に入った。外部コーチの立場では部室に入ることはほとんど無い、以前岩泉に資料を渡すために一度立ち入ったことがあるだけだ。だからこそわかった、あの明かりのついている場所は男子バレー部の位置。まだ残っている部員が居るのなら帰宅を促すのも一応自分の役目だろうか。腕時計を見ると丁度9時半を指していて、それで決心を固めてノックをして二度目の入室を果たす。


部室に残っていたのは主将である及川だった。時々残ってイメージトレーニングをしているのだと、女子に騒がれる笑顔で言った。それはそれはとても懸命であるけれど、とはいえもう遅いし明日も学校があるから、と言って返ってきたのはそうですねという返事と、背中の衝撃。


「俺ねえ、ずっとコーチのこといいなあって思ってたんですよ。ほら、顔はかっこいいし声もかっこいいしバレー教えてもらえるし、教え方上手だし人当たりいいし。監督にしか笑ってないっていうのも好きなんですよねぇ、俺ギャップに弱いんで。あーでもいつも難しい顔して国見ちゃんによく怒ってるじゃないですか、あれ羨ましいなーって、ね。俺上手いからコーチ怒ってくれないし、岩ちゃんと違って女の子絡みのことじゃ我関せずって感じで見向きもしないし、部室に来ることもないから、体育館でしか縁が無いから今俺嬉しくて嬉しくて。あは。ねえコーチ、溝口コーチ、俺、コーチのこといいなあって思ってるんですよ」


及川は俺をロッカーにがしゃんと押し付けて鍛えられた両腕で閉じ込めた。茫然。俺が見たことのある及川の表情の数なんてたかが知れているけれど、少なくともその中にこんな表情はない。男が男にだとか、慕ってくれる女子はいいのかとか、どうして俺なんだとか、生まれてくる疑問を飛び越えて驚きが勝った。コーチとして見たことのある及川の笑顔の種類と言えばあからさまな営業用と試合に勝ったときの年相応のもの、あとは策士のような勝負師のような自信に満ち満ちた企み顔だけれど、今俺の目の前にある整った笑顔は漸く獲物を捉えた肉食獣の目つきをしている。そこでやっと、自分がどんな状況にいるのか少し把握した。


「…及川、そういう顔は俺に向けるもんじゃない」

「残念ですけど自分じゃ見えませんから、どんな顔してます?俺」

「……飢えてる」

「あは、飢えてる、飢えてるかぁ」


言い得て妙ですね、及川は満足そうに飢えてると何回も繰り返す。俺を閉じ込めた腕が移動して右手は肩に、左手は俺の右手と指を絡ませてきた。


「そりゃ飢えるよ。俺、こんなに片思いしたのって初めて」

「…尊敬と憧憬を勘違いしてるだけだろ、放せ」

「この年になって違いが分からないほど子供じゃない」


絡ませた指をぎりりと握られる、どんな握り方をしているのか分からないけど力を込められている割に痛みを感じない。そのせいか、焦りや怯え、怒りなんていうものは一切沸き上がってこなかった。


「ねえコーチ、この偶然を俺は柄にもなく運命だと信じて疑いませんよ、せっかくだし記念にキスしてもいい?」

「全てにおいて意味がわからん」

「分からせてあげますから」

「黙れ放せ、偉そうに」


肩に置かれた手をパシリと払って、及川をよけて歩みを進めながら握られた右手も振り解く。ジャージを取りに来ただけでとんでもないことを知らされてしまった。明日も部活があるのに、こいつは気まずくなるかもしれないだとかそういう可愛げのあることを考えないのだろうか。まあ可愛げがあったところで、どこまで本気なのかも分からない子供に付き合うつもりは無いけれど。
ふざけてないで早く帰れよ、言いながらドアノブに手をかけて振り向いた。


「これで明日遅刻でもしたらお前だけメニュー変えるからな…って、ッ痛…!?」

「隙だらけで困っちゃうなァ、可愛いだけだよ」


気がついたら及川の顔が鎖骨の辺りに埋まって、歯と骨がガリリとぶつかった。痛みと驚きでとっさに及川を突き飛ばす、前にこいつはひょいと避けた、笑顔で。


「痕つけちゃったー」


とりあえず満足したしさてさて帰ろう、上機嫌に帰り支度を始めた及川が今更不気味に思えて、背を向けないまま後ずさるように部室を出た。咬まれた鎖骨が熱を伴って痛みを主張している。


薔薇と冷水
(牙をむかれた感情を)
(愛と呼ぶには程遠い)



thx 休憩