先生を"先生"と呼ぶことに、全く抵抗がないわけではない。抵抗というより、反抗といったほうがいいのだろうか。先生のことを、"先生"とか、"石田先生"と呼ぶ度に、どこか腑に落ちない気持ちになる。そして、それがどうしてなのか、この間気付いた。私は先生のことを、稔さんと呼びたいのだ。恋人同士のように、世界で一番愛する人のように、稔さんと呼びたいのだ。

 先生の子供が、二ヶ月前、生まれた。担任の与一が、クラスの全員に向って終礼のときに教えてくれたのだ。
 与一というのは、クラスの皆がつけた担任のあだ名だ。名字が那須だから、那須与一からとって、与一。悪くないあだ名だと思う。実際、与一はクラスの大多数から好かれていて授業も上手い。
 私は、与一から聞かされたその事実をしばらく受け入れられなかった。先生の子供がもうすぐ生まれることは知っていたけれど、何故かそれはとんでもなく遠い未来の出来事のように感じていた。奥さんのいないあの部屋も、暑い部屋のベッドの上でぐったりと抱き合うときの湿ったシーツも、永遠に続くと思っていた。
 先生の子供が生まれてからの2ヶ月間、私は先生と会っていなかった。もちろん週に3回は先生の授業があるし、毎日廊下ですれ違ってはいるけれど。先生の部屋で、とか、待ち合わせてホテルで、とかはもちろん、なかった。


 そして今日、わたしは山下くんと腕を組んで歩いていた。
 彼を誘った理由は、なんでもなかった。放課後、教室を出ようとしたら、足が寒かったから。朝、たまたまタイツが見つからず、ハイソックスを履いていたから、太ももに当たる風が冷たかったから。あぁ、寒いな、暖かいところに行きたい。そう思ったから、隣にいた山下くんに声をかけたのだ。ねぇ、遊びに行こう。

 温めてくれる人なら、誰がいいとか、誰が嫌とか、特にこだわりはない。山下くんのことは嫌いではない。女の子には優しく、それなりに目立つ方で、顔立ちも整っている。ちょうどよかった。

 カラオケに行って、駅前でご飯を食べて、さあ、このあとどうするか、というところだった。山下くんの足が、少しだけそちらへ、"そういうこと"をするところへ、進もうとしているのがなんとなくわかった、そのときだった。

「笠原」

先生の、声だった。

「何やってる、…お前、2組の山下だな。もうすぐ11時だぞ。補導される前に家に帰れよ」
「えー先生こんなとこで何やってんの」

山下くんが少し茶化すように先生に言った。確かに、ここは駅から少し逸れた、ラブホ街に近い場所だ。

「俺は帰り道だよ。はい、解散解散。笠原、お前駅だろう。送っていくからな。山下は駅か?」
「いや、俺は自転車です」
「わかった、補導されないようにすぐ帰れよ。…いくぞ笠原」

 先生がぽんとわたしの背中を押し、山下くんはちぇ、と言って自電車に乗って走り出して行ってしまった。私は先生に背を押されるまで、終始ぽかんと立たすくんでしまっていた。
 山下くんとやましい気持ちで歩いているところを見られてしまった恥ずかしさとか、先生に会えた嬉しさとか、その反面思い出してしまう家で待っているであろう先生の新しい家族のこととか、そういったものが頭の中でぐるぐるして、ただ、立ちほうけていた。

「まったく、いい加減にしなさい。きみ、山下のこと別に好きじゃないだろう」
「…なんで先生にそんなことわかるの」
「学校で会ってれば、わかる」

先生には、私がまだ先生のことを好きだってことがわかってるんだ、と思った。わかってて、今日は呼び止めて邪魔したんだ。

「子ども、生まれたくせに」
「それがどうした。だからそれ以降、会ってないだろ」「じゃあ、わたしと山下くんの邪魔しないでよ」

こんなことが言いたいわけじゃない。だけど、私の中の黒いものが溢れて止まらなかった。

「邪魔とかじゃなくて、教諭として当然の行動だろう、今何時だと思ってるんだ」
「邪魔してるじゃん!わたしが新しい人と、付き合おうがセフレになろうが先生には関係ないじゃん!わたしは山下くんと今日寝たかった。先生がいなくても大丈夫って、他の人に求められて安心したかった。それの何がいけないの?なんで邪魔するの?先生なんて…稔さんなんて、大嫌い」

そうまくしたてて先生を睨んだ。先生は少し驚いてはいたけれど、やっぱり落ち着き払っている。だめなんだ、私の言葉では先生を動揺させることすらできない。

「…送ってくださらなくて結構です。心配しなくても、先生とのことは、誰にも言いません。」

そう言って駅まで走り出す。一度だけ、先生が駅まで送ってくれたことがあったなぁ。あれはわたしが、最中に泣いたからだった。あの時、あぁ先生にも人の心があるんだなと思ったけど、やっぱり先生には人の心なんてない。家で待っている先生の奥さんと子どものことを思って、ひどく胸が痛んだ。ごめんなさい。そう思って目をぎゅっと瞑ると、涙が落ちていくのがわかった。
 でも、走る足は緩めない。

 初めて稔さんと呼んだのを、先生は気付いてくれただろうか。




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