小説 | ナノ







静止の声を振り切りながら、涙で覆われた視界を制服の裾でぐいっと拭う。私は今、逃げていた。長い廊下を走り抜けて、やたらと数のある階段をひとつ飛ばしで駆け上がって。それでも後ろから、追い掛けてくる気配は消えてくれない。どうしよう、どこに行けば彼から逃げられる?





事の起こりは数分前。ちょうどタイミング良く好きな人が告白されて、他の女の子の「彼氏」になった瞬間を見てしまった。覗き見なんていけないことだと知りながら、悲しさで胸がいっぱいになって動けなくなっていた私の肩を誰かがポンと叩いて、弾かれたように振り向けばそこには綺麗な男の子。


有名だからすぐに思い当たった、この人は幸村精市くん、だ。強いことで有名な我が中学校のテニス部の部長。もちろん、そんなすごい人と会話をしたことなんて一度もない。それなのに失恋したての、泣きそうな顔を見られるなんて情けなくて恥ずかしくて、だから私は走り出した。

変な女だと思われても構わなかったし、まさか追い掛けてなど来ないと思っていたのにそれに反して、なぜか今も校内を駆けずり回ってなお振りきれないという状況に陥っているわけだ。何を言っているかわからないと思うけれど私だってわからない。というか多分一番混乱している。



そうこうしているうちに屋上へやってきた。扉を開くと太陽の光が一目散に私を狙い撃ちする。一瞬くらりと眩暈が起こって、足が止まったその時。背にある扉がもう一度開いて、すぐに耳に飛び込んでくる怖いくらいに柔らかい声。




「やっと、追い付いた。」

「……!」

「足速いね、それとも火事場のなんとかってヤツなのかな」

「あ、の……」




さも知り合いであるかのように話しかけてくる彼の息は、これっぽっちも乱れていなかった。流れるような言葉達を耳に響かせながら、涙のせいなのか全力疾走のせいなのかわからない、切れ切れになる呼吸を整える。それにしても、どうして追い掛けてきたのだろう。こんな酷い顔、誰にも見せたくなかったのに。




「俺のことは知ってる?」

「…は、い…」

「そっか。…俺も、話したことはなかったけど君のことはずっと知ってたよ」

「え…?」

「君があいつのことをずっと見てたことも、失恋したことも、全部知ってる」




しつれん。たった四文字に全てが詰まっているだなんて悲しい話だ。返答をするすることこそ出来なかったけれど、全てを見透かした瞳を向けてくる目の前の彼のことを、不思議と気持ち悪いとは思わなかった。ただただそこにある、絶対的な存在感と恐怖にぞくりとした何かが背筋に走る。




「チャンスだと思ったんだ。」

「…チャンス?」

「そう。ふふ、本当にあいつは馬鹿だよね。」

「そ、そんな言い方はしないで下さい!」

「感謝してるんだよ、これでも…ね。だってそのおかげで、俺は君の弱みにつけこめるんだから」




そう言って、あんまり綺麗に笑うものだからつい見とれてしまった。失恋したばかりだというのに息をつく暇もないくらいの速さで訪れる超展開のせいで、視界はもう滲んでいない。つい、と頬に伸ばされた手は冷たく感じて何故だか身動きが出来ずにいる。彼の、形の良い唇が動くごとに心が跳ねるのを感じた。




「…好きなんだ」

「……。」

「すぐに、なんて言わない。…でも、寂しくなったらいつでもおいで。俺ならきっと、こんな風に泣かせたりなんかしない。」




一際強い風が吹いて、髪とスカートが揺れる。けれど真剣すぎる彼の真っすぐな瞳は揺らぐことがない。視線を逸らすこともなにかを言うことも出来ずに立ち尽くす私にまた、心の底が見えない柔らかい笑みが向けられた。




「俺から逃げられるなんて思わないでね、それと、廊下は走らないほうが良いよ」

「…あ」

「この学校の風紀委員長…知ってるだろ?あいつは融通効かないからね」




風紀委員長の顔を思い出したのか、今度は本当に楽しそうに笑った。こんな表情も出来るというのが意外で、よくわからないが心の奥が擽ったくなる。元から綺麗な顔をしているけれど、こんな風に笑うともっと綺麗だ。




「…それじゃあ、もう行くよ。追い掛けたりして悪かったね」

「あ、いえ…、そんな」

「今度会う時は、逃げないでくれたら嬉しいな。最も、結局は逃がさないから同じだけど」




そう言い残して、振り向きもせず屋上の扉の向こうへと消えていく。一人になった途端、張り詰めていた緊張の糸が急に緩んだ気がしてその場に膝をついてへたりこんでしまった。色々なことがぐるぐると巡る頭の中をまだ整理出来ず、深い息を吐く。

正直な話、恋心というものはそんな簡単に消えるものではないし失恋は胸の奥が痛む悲しいものだ。けれど、先程の屈託のない笑顔がちらついて止まないのも、また事実。なんとなくだけれど、またすぐに会話の機会が訪れるような気がした。その時、私はきっと今日のように涙で濡れた顔ではなく笑顔でいたいと思うのだ。





(逃走劇の結末)




真っ直ぐ見つめてくれたから、次は逃げずに私も真っ直ぐ向き合おう。そう思いながら屋上に吹く風に身を任せた。



END



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