小説 | ナノ






又兵衛様がお見えになられていない。肌で感じる時間がどれ程なのかは定かではないけれど、長いと思えてしまうのだから仕方ないだろう。心配しようにも、ここ以外の場所を知らない私は待ち続けるしかないのだ。しかし、待てども待てども来ない。そうして過る一抹の不安。又兵衛様は、私に飽きてしまったのだろうか。もういらないから、捨ててしまったのだろうか。こんなに呆気なく、喪失するなんて。考えれば止まらなくなる思考は、涙を誘い出してくる。唯一の依存先をなくした私はどうなるのだろう。人間でもなく妖怪でもなく、中途半端なまま、ここでずっと一人ぼっちなのだろうか。嫌だ、こんなに広い場所に、一人は寂しい。あの声が恋しい。身代わりだとしてもお側にいたいと思えた位に、好きになったのに。




「…チッ、なぁ〜に…、泣いて、やがるんです、かぁ?不細工、に、磨きが…」

「………ま、又兵衛様?」

「又兵衛様、…だ、けどぉ…ッ?」

「な、なにが、あったんですか」

「……。」




求めてやまなかった声が与えられて顔を上げると、そこには血にまみれてボロボロになった体を引きずるように歩く又兵衛様の姿があった。荒い息の合間に吐き出す言葉は平素通りではあるけれど、明らかに異常な光景だ。畳の上にぬるりと鮮血が伸びていく様子を見て混乱する。何で、どうして。私の姿を見て目を細めたかと思うと静かにその場に倒れ込んだ。思わず駆け寄るけれど、揺さぶって良いのすらわからないくて躊躇する。こんな時に限って部下の方々は姿を見せない。いや、もしかしたら見せられないのかもしれない。触れた頬は冷たくて、嫌な予感に背筋が震える。自分の心臓が嫌に速くなると同時に、聞き覚えのない足音が近付いてきていることに気付いた。





「ああ、ここにいたのか!結界が弱まったおかげで見つけられて良かった!さぁ、ワシと共にここを出よう!」

「あ、なた、は…?」

「ん?怯えなくて良いぞ!ワシは地上を統べる太陽神、名は、そうだな、家康と呼んでくれ」

「家康、さま」




目の前に差し出された手と、今この場所に似つかわしくないような、努めて明るい声。心無しか後光がさしているように感じた程の存在感を持つ太陽神と名乗るこの人の目には、私の傍で動かない又兵衛様が見えていないのだろうか。未知の恐怖に固まった体と、考えることを放棄してしまいそうな脳を必死に働かせる。この人はどうしてここにいるのだろう、どうして私に手を差し伸べているのだろう、この手を取れば、一体どうなってしまうというのか。目の前の、快活そうな青年の形をした神様は曇りなき笑顔を崩そうとしない。それが余計に私の恐怖を駆り立てた。だが、それどころではない。藁すら掴む思いだ、今は誰であろうと、頼れそうな人に頼るしかあるまい。





「…ッ、あの、家康様!又兵衛様が、又兵衛様の様子がおかしいんです、血が、血がいっぱい出ていて、傷だらけで、倒れてしまって…!」

「うん?手加減はしたつもりだったんだが。人間の娘さんを拐うなど、神としてあってはならないことだからな。灸を据えさせて貰った」

「…あなた、が?」

「どうしてそんな顔をする?ワシは、又兵衛が悪戯に拐った人間の娘さんを助けに来たんだ。それに、見たところまだ半妖だろう、手遅れになる前で良かった…。さあ、ワシの手を取ってくれ」




差し出されたこの手を取れば、帰れる。突き付けられたその事実の重さに戸惑う。確かに、最初の頃は帰りたかった、人間としての真っ当な生を望んでいたはずだ。だけど今、それを選んでしまえば又兵衛様はどうなる?途端にぶわりと又兵衛様の傍で過ごした時間が記憶として巡ってくる。怖かっただけの存在は、いつの間にか不器用で優しい、唯一の拠り所になっていった。そして、そんなところを一度好きだと思えばじわりじわりと広がる熱のように、好きなところが増えていったのだ。人間だろうが神様だろうが関係ない、母がいつも話していた絵空事としての又兵衛様ではなく、ここにいる一つの存在として、どうしようもなく。





「…ごめんなさい、折角助けに来て下さったのに、私はその手を取れません」

「えっ?ど、どうしてだ?」

「私にとっての光は貴方ではなくて、又兵衛様なんです。私は、…例え誰かの身代わりでしかないとしても、自分の意思でこの方の、お傍にいたい」




思えばこれまで、ここまではっきりと人に意見を言ったことなどなかった。いつも流されるまま、明確な土台なんて持たぬままに生きていたのだ。そんな私が、神様なんていう桁違いの存在に自分の意見を伝えられている。改めて自分の中の又兵衛様の大きさを知った。先程、家康様は手遅れになる前にとおっしゃられたが、何にせよもう心は手遅れらしい。暫く真っ直ぐに見つめ合った後、家康様が気まずそうに口を開く。




「…そうか。では、自分の意思でここにいると、そう言うんだな?」

「そうです。だから、又兵衛様を助けて下さい」

「参ったな、じゃあワシがやったことは単なるお節介じゃないか」

「…すみません」

「ハハッ、全くだ!」





なおも快活に笑う彼は、ふと真顔になると倒れ込んでいる又兵衛様に手をかざして、何やら聞き取れない言葉の羅列を呟く。一瞬眩い光にその細い体が包まれたかと思えば、あんなに痛々しかった傷の数々が全て消えていた。それを満足げに見つめながら、家康様は私に背を向けて歩き出す。直感的に、もう二度と会うことはないような気がした。




「じきに目が覚めるだろう。余計なことをしてすまなかったと、そう伝えておいてくれ」

「は、はい」

「…どうして又兵衛は、貴女をさっさと完全な妖にしてしまわなかったんだろうなあ」




どういう意味なのかと聞き返したかったけれど、そうする前に家康様は跡形もなく消え去ってしまった。意識を失っている又兵衛様と二人で取り残された部屋にはただ静寂が満ちていて、長い夢でも見ていたのかと錯覚しそうになる。けれど、夢ではなかったのだ。畳に残された、時間が経って変色した血がそれを如実に示していた。








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