水道の蛇口を捻り、両手で掬った冷たい水を顔に当てる。拭っても拭っても、脳裏に浮かんで消えぬのは彼女の笑顔。俺は、彼女との約束を果たせなかった。あの日、消えた彼女は成仏したのだろうか。俺は彼女に何かしてやれたのだろうか。結局今も彼女の名前を思い出すことが出来ない俺がこんな事を思う資格すら無いのかもしれないが、それでも悔やむ。
「真田」
「幸村…何か用か」
「動き悪すぎ。調子出ないんだったらもう今日は…そうだなぁ、海にでも行って潮風に当たってきたらいいんじゃない?」
「む、しかし…」
「お前がたるんでちゃ、部員に示しがつかないじゃないか。さっさと行けよ」
「……ああ。」
有無を言わせない幸村の迫力のある物言いに押され、何故か俺は海へと行くことになった。幸村はどこまで知っているのか、気になるが聞いてはいけない様な気もする。とは言え、近い内にせめて俺だけでも夕日が海に沈む様を見に行こうとしていたのは事実だ。意味があるかはわからないが、彼女への真摯な気持ちをそっと置いてくる場所にはなりそうだ。
今更気付いたが、多分俺は彼女に恋をしていたのだろう。たった一週間の、再会の中で。出会う前の生活に戻った、ただそれだけの筈なのにどこか物足りないのだ。恋など戯れ事だと、確かにそう思っていたのにこの様は何だ、全くたるんどる。
計ったように、調度あと少しで空が橙色に染まる時間になるだろう。それまでは海沿いの道を、潮風に当たりながら歩こう。一つも忘れぬように彼女との思い出を反芻しながら。
帽子の鍔をぐっと掴んで、飛ばないように注意をする。浮かんでは消える彼女と過ごした日々達。懐かしく、新鮮だった彼女という存在。まだ、別れを受け入れきれていない自分がいるのを痛いくらいに認識していた。気配を感じないだけで、振り向けば彼女が淡く微笑んでくれているような、そんな気がして。
(……くだらん。)
自分自身への自嘲を浮かべながらも、暫く歩いて見晴らしの良い防波堤に腰を降ろした。少し潮風が強く頬に突き刺さるのが難点だが、ここから見る夕日はさぞかし綺麗だろう。波の音だけが響く。橙色に染まった波が寄せては引いていく様子を見ながら、ただただ夕日が沈む瞬間を待った。あと、少しだという時に、近付てくる足音に気付いた。
「…誰を、待ってるの?」
「………。」
わざわざ振り返らずとも、声で、もう判る。間違えるはずなど無い幾度も聞いた、柔らかい声。まるで悪戯をする子供のような響きは、少し落ち着いているようにすら思えた。男子たるもの泣いてはならぬ、それなのに。掌を固く握りしめなければよくわからないものが溢れて、零れてきそうだ。落ち着け真田弦一郎、たるんどるぞ。
「…お前を待っていたに決まっているだろう、他に誰を待つと言うのだ」
「幸村くんとか?」
「……。」
「冗談だよ、弦一郎くん。…ねえ、隣に座ってもいい?」
返事を待たずに彼女が隣に腰を降ろした。聞いた意味はあったのか、と尋ねると弦一郎くんのしかめっ面が見たくなったからね、と穏やかな笑顔で言われる。直接感情が伝わるわけではないが、表情から窺うことが出来た。心無しか大人びた顔付きに、伸びた髪。疑問に思うことは山ほどあったが、また出会えたのだ。今度は時間制限などない、たっぷり時間をかけて語り合うことが出来るだろう。
無意識に伸びた手は、隣にいる彼女の一回り小さい手をしかと包み込んだ。もう離したくはない。
「なんか変なの、弦一郎くんの手、私より冷たい」
「長らく潮風に当たっていたからな」
「…じゃあ私があたためる。…なんだか嬉しいな、うん、嬉しい。」
彼女の全てが、海に沈みゆく夕日の所為で橙色に染まりゆく。左手から伝わってくる彼女の体温を感じながら、夕日を見つめている只管に柔らかく穏やかな横顔をいつまでも見ていたいと思った。愛しい、とはこのような感情を言うのだろうか。ああ、そうだ。大切なことを未だに聞いておらぬ。
「…今更だが、お前の名前は?」
「ああ、そうだったね。私の、名前は─」
(後日談/それは、橙色に染まる再会の物語)
さて、俺達の新しい物語をまたここから始めるとしようか。
END!