小説 | ナノ




満月の夜、満天の星。住み慣れたお屋敷をそろりと抜け出して、冷たい夜を駆ける。着物の裾がはだけて、素足が泥で汚れてしまったけれど構いはしない。逃げて逃げて、逃げ切らなければ。裏切るような行為とは裏腹に募る恋慕だけが私を突き動かしていた。乱れる息も、潤む眼も、私の存在の全ては今までもこれからもあの方のためにある。だが私の存在は、最早あの方にとって邪魔にしかならないのだ。女の身では護られるばかりで役に立てないし、傍にいたとて、癒してあげられるわけでもない。それどころか優しい優しいあの方の時間を悪戯に奪うことしか出来ないのだ。

それならばいっそ、いない方が良い。身を裂かれる思いではあった。それでも、私がいなくなれば彼は私に使っていた時間を他の有用なことに使うだろう。だから、月の光だけを頼りに暗闇を駆け抜ける。光の粒がじわりと滲むのは、さよならを言えなかった弱さが溢れてしまったからだ。ああ、そのはず、だったのに。




「ヒヒッ、やれ、手間のかかる雛鳥よな?飛び立てぬ羽根で悪戯に巣から飛び出せば地に落ち、餓えた野犬に狙われ喰われてしまうぞ?それとも、われの籠は気に喰わなんだか」

「よ、しつぐ、様…?どうして。三成様と、酒を酌み交わしていたのでは…?」

「何、忍からの報告を受けたまで。よもやわれから逃げ切れると思っておったのか?大層浅はかな思考よ、ナァ?最早ぬしは底無し沼に足を取られておる、絡め取られたが最後、幾ら足掻けど行き着く末は大きな谷の下しかあるまい」





真後ろからあまりにも聞き覚えのある声がして振り向けば、喉を引きつらせて楽しそうに話す吉継様の姿。だけど目が、少しも笑っていなかった。いつもよりも饒舌に多くを語る舌の赤さが月の光で妖しく映し出される。固まった体がふわり、宙に舞う。ああ、捕まってしまった。結局私はこの人に無駄な労力を使わせただけではないか、情けない。射すような視線が痛くて、ここまで逃げるのに何度も転んだ傷跡も痛くて。折角吉継様からいただいた着物もこんなに汚してしまって、そこまでしていただいているのに、私はこのお方のために綺麗に去ることすら出来ないのか。




「…後生です、どうか、このまま逃がして下さいませ。私は、私は、もう貴方様の所に戻るわけには行かぬのです。それが叶わぬならば、いっそここで殺して下さい」

「ぬしもわれから離れゆくか…、ヒヒヒ、なればこそ逃がさぬ。われの全てを厭いながら、憎みながら、気味が悪いと恐れながら怯えた瞳でずるりと生きるが良かろ。それはまさしく、われが望む不幸の姿よ」

「そうではありません吉継様、私と共にいて不幸へ落ちていくのは私ではなく、貴方様なのです。」




涙ながらに訴えれば、もう逃げる気はないと判断されたのか数珠を繰って私をゆっくりと地面に降ろした。ゆらりと、吉継様の愛しいお姿が近付いてくる。もう二度と見ることはないと思っていたのに、近くにいればこんなにも愛しくて苦しい。我が身には過ぎた幸せに息が詰まる。触れられる距離にいれば、想いは熱を持って貪欲に相手を求めてしまうのだ。ならばいっそのこと一思いに、と。もう一度呟いた言葉は溜め息混じりの呆れたような声に掻き消された。





「…われを案じての逃走劇だと、ぬしはそう言うか。やれ愉快なことよ、小娘一人ごときで揺らぐわれではない」

「で、ですが!」





ここにこうして、吉継様がおられることが何よりの答えなのではないのだろうか。私ごときに裂く時間がないと、揺らぐことなどないとお思いならば、それこそ生き延びることは容易で無いだろう女のことなど、捨て置いておけば。三成様との時間を中座してまでこちらに来てくれてからのその御言葉はどうしたって響かない。彼は気付いておられないのだろうか。この矛盾をどう言えば伝わるのかと思考を巡らせども舌は動かず、そのすぐ後の彼の言葉に絡め取られてしまった。





「気が済んだなら帰るとしよ、何、恐れることはない。興が削げたゆえ、三成には上手く言っておいてやろ。それで全て元通りよ、モトドオリ」

「…わたし、は」

「ぬしの言葉など元より求めておらぬ。われが望む侭に籠の中、愛らしく足掻く姿を此れからもずいと見せやれ。それがわれの幸福と為ろう」





浅い吐息が、星屑の夜空へ弾けゆく。この人は自分が発する言葉の意味をひとつも理解していないのだろう。言葉の熱が夜の冷たさに吸収されてなお、美しく輝く欠片となって心臓を貫いた。彼の言葉は、燻ゆる独占欲にまみれていて、それを飲み干してしまえばもう、逃げ場など何処にもないと思い知らされる。もう手遅れだったのだ。役に立たぬ、それどころか邪魔になるだけのがらくたを、彼は頑として手放さぬと言う。私にとって何よりの幸せの形を、不幸の極みだと言う。そうして、何より大切なものを見落としながら彼は水晶の如く綺麗に笑うのだ。私には彼の空虚を埋めることなど出来ないのに、私を失えばそれが広がると怯えている。そんなことはありはしないのに。馬鹿げている、それでも何より愛しい人がそれで満足とするならば、敢えて私は飲み込もう。最後の機会を振り払って落ちていくことを選ぶならば、どうか共に。




「…煩わせてしまって、申し訳ございませんでした。もうこんな真似はしないと約束しましょう」

「飛び立てぬ憐れな雛鳥よ、なぁに、これまで通りわれが全てを与えてやろ。外は危険に満ち充ちているが、籠の中はそれなりに安全ゆえなァ」

「それが貴方様の幸せに繋がるというのならば、飛び立つことなど喜んで放棄します」

「それで良いのよ。参るぞ」





駆けてきた道程を、今度はゆったりと、彼の背を追うように歩んでいく。左様なら、もう二度とこんな、冷えた月と星が冴えて煌めく夜には出会わないだろう。羽ばたくことなど叶わなくとも、独り善がりな幸せには浸れるのだ。けして重ならない二つの影が寂しげに、それでも確かに伸びていた。








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