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現パロ

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今日私は、馴染んだこの部屋から出ていく。部屋中に染み込んだ彼と二人で過ごした時間をひとつひとつ摘み取るように自分の荷物だけを纏めていくと、何てことはない日常の記憶達がぶわりと浮かんでくる。それらを大切に思いながらいつまでも色褪せぬようにと無理なことを願った。長い時間、ここにいた。柔らかくて甘い、箱庭のような場所。ああ、私は知らぬ内に大人になってしまっていたのだ。その事が今はひたすらに悲しい。終わりを見据えた今、私は未来すら見えてしまったかような気持ちになった。きっと、穏やかなまま、悪いことなんて一つもなかったように優しい気持ちだけが残るのだろう。そして時と共に風化して、少しずつ思い出になる。





「愛してる。だからワシと別れてくれ」

「……うん、わかった」




反芻した彼の瞳が愛しげに揺れた。この人は最後まで真っ直ぐで、そうして狡い。勿論同じだけ私も狡いのだ。すれ違いが積み重なってどこにも気持ちを逃がせなくなった、それでも愛はそう簡単に消えてくれたりはしない。それならば、と。互いに一番傷付かぬ手段を考え付くのは容易だった。愛し合ったこの時間を、思い出として永遠に閉じ込めてしまえばいい。辿れば全てが美しい。二人の時間は進まないのだから、壊れる心配などありはしない。隣にいる未来よりも、永遠に抱えられる宝石のような時間が欲しかった。恨まず恨まれることもせず、狂おしい位の幸せがそこには渦巻いている。今この関係を終わらせてしまえば、私たちの愛は終わらない。だから、今。





「今までありがとう」

「ワシこそ」

「…そうだ、言い忘れてたけどね、…私も愛してる」





悲しくなんてないはずなのに、それらしく一滴頬に流れて落ちていく。苦しくなって呼吸が出来なくなる前に、宝箱に閉じ込めるだけだというのにどうしてなのだろう。きっと何年後かにそれを開けたら、ひたすらキラキラと輝くに違いないのに。ああでも、少し遅かったのかもしれない。愛してるという言葉すら空回って宙に浮かんで四散していくものだから、もう。綺麗なままで終わらせたいのに端から少しだけ濁っていく。それに気付かない振りをして、涙を拭った。汚い感情を外に排出しただけなのに、目の前の彼がそれすら綺麗だと笑うものだから、曖昧に笑い返すことが出来ていたかも定かではない。私も彼も、真実などに最早興味はないのだ。ただそこに、美しい夢があれば、それを閉じ込めていつでも手にして眺められるならばそれで良い。なんて勝手なのだろう。だけどそれが悲しい程にいつもの私達だった。ならばこれが二人に似合いの結末であるはずだ。




「泣いてくれるだなんて、思わなかったな…」

「私も泣くつもりなんて無かったんだけどなぁ、でもきっと、楽しかったんだと思う。家康と過ごした全部、良いことも悪いことも引っ括めて」

「この選択に後悔しているか?」

「あはは、そんなの無いよ、だって最後に二人で決めたことだもの。」





そうか、と頷く家康の拳が固く握り締められているのを見ない振りをして、まとめた荷物を確認する。大きいものはもう先に新居へ送ってしまったから、これで本当に最後だ。もし何か忘れ物をしていたら構わず捨ててほしいと言ったら下手くそな笑顔が向けられた。そんな風に迷うのは彼の悪い癖だ。優しさもそんなところではマイナスにしか働かないとこれまで散々言ってきたのにやはり根っこの部分は直らないらしい。咎めようとして、唇を閉ざした。それはもう私の役目ではない。





「それじゃ、私はそろそろ行かなきゃ。体に気を付けて、元気でいてね」

「ああ、……そっちこそ」

「それと、忘れないで。好きだった、大好きだった、誰よりも、愛してたよ。…それじゃ、さよなら。」

「っ、ああ!ワシだって、ワシだって、愛していた!お前と絆を結べたこと、感謝している!」





綺麗事を並べ立ててその部屋を出て、扉を静かに閉めて蓋をした。これで完成だ。私にとってこの場所の記憶は永遠に、何にも代えがたい程の宝石箱になる。これで良かったんだと繰り返せば脳も麻痺してくれたようで、沸き上がってきたのは苦しい程の愛しさと切なさだけ。絆なんて、結んだそばから綻びていくものだと知っているけれど、知らない振りをした。そうやって自分を守った。これが一番良い終わらせ方だ、悲しいはずなんてない。そう思うのに、次から次へと涙が落ちて止まらないのはどうしてだろう。

思い出すのは、知っていたのに口に出さなかったことの数々。正面から向き合うのが怖くて怖くてたまらなくて、気付いていない振りを、見ていない振りをして逃げた。言いたいことも言うべきことも、向こうの顔色を窺って綺麗事にくるんで廃棄するのを選んだから、一番大切な筈の本当の言葉なんて伝えた試しがない。瞼の奥の幸せな日々が眩しい位に輝いて、それなのにもう届かないのは、少しずつ気持ちがすれ違い始めた時に変に大人ぶって、感情の衝動に向き合おうとしなかった臆病な私への罰なのかもしれなかった。




「……家康」




ああ、それでも。この名前を呟いて泣くのはこれが最後にしよう。こんなに人を大切に思ったのは、過ごした時間をいとおしく感じたのは、決して嘘なんかじゃない。だから今だけはこの美しい喪失に浸って泣き濡れていたいのだ。








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