小説 | ナノ






不安で仕方なくて、何度も弦一郎くんの名前を呼ぶ。私にとって弦一郎くんは、一筋の光だ。だからこそあまり迷惑を掛けたくないのにそれすらの叶わない私は、曖昧で朧げな自分自身を恨めしく思う。



彼の部屋で、彼の帰りを待つ。誰も干渉出来ない一人の時間は酷く退屈で、動き回ったとしても音ひとつたたない静寂によく解らない焦燥感を駆り立てられる。私は、いつまで私でいられるのだろう。

迷惑にはなりたくないのに、ここに存在して認めて欲しいだなんて過ぎた我が儘だ。それでもやっぱり不安でたまらない。何もかもが曖昧な私の中の、唯一確かなもの。それが彼だ。彼のいない、静寂だけが広がる空間は何だか少しずつ、だけど確実に私を追い詰めていく。




(彼が、いない。)




この家に転がり込んで三日目、彼がいる時は努めて笑顔でいたつもりだ。弦一郎くんは、情に厚くて誰よりも優しい人。そんな優しさに触れていながらも私は、未だに自分にとって大切であるはずの記憶を何も思い出せずにいた。

「げんくん」と過ごした日々の先、私が引っ越しをするからと泣きながらバイバイを告げた日の先がどうしても出てこない。それに辿りつくまでは鮮やかな色の記憶達が溢れて来るのに。考えれば考えるほど、頭の中に雑音が鳴り響いて恐怖感が沸き上がってくる。たとえもう死んでいたとしても怖いものは怖いのだ。


ああ、ついでに言うと死んでしまっているのかもしれないのに、記憶達を失ったままではそれすら悲しいと思うことが出来ない自分が何より嫌だ。本当に、私は誰なんだろう。





「…お帰りなさい」

「ああ。夕食を摂ってくる。」

「うん、わかった」





そうこうしている内に彼が帰ってきて、ホッと胸を撫で下ろす。足音、圧倒的な存在感。良かった、静寂は破られた。夕食を食べ終われば彼は一度自室に戻ってくるだろうからもう押し潰されそうな不安に身を委ねる必要はない。なんだかんだ言って、彼の傍は居心地が良い。真っ直ぐな瞳で私を射抜いてくれるから存在を保つのが幾分か楽になる気がする。最高の安心感、と言い換えても良い位だ。





「…何かあったのか」

「…な、何もないよ?」

「お前の下手な嘘など見破るのは造作もない。…先程、泣きそうな顔をしていただろう」




これ以上寄り掛かることはしたくない、のに。彼の大きな手の平が私に触れた。決して重なり合うことは無いけれど、私にとっては微かな熱を感じることが出来る唯一の方法だ。そんなことをされたら我慢など出来ない。彼の前ではせめて笑顔でいたかったのに、全てを見透かすような瞳はそれを叶えてはくれなさそうだ。




「…私ね、すごく怖い。この部屋、弦一郎くんがいない時は静かすぎて、私がいくら動いても物音一つたたない。それを認識するたびに、ね?…なんだか自分の存在がびっくりするほど曖昧になっていくの。…うん、こんなこと言ったってどうしようもないよね、変なこと言っちゃった!忘れていいから…」

「…お前は、外に出れるのではないのか?」

「…一人で外に出たら、何となくだけど…もうここには戻ってこれない気がする。」

「お前さえ良ければ、…学校に着いてくるというのはどうだ?どうせ邪魔になるとか考えてるのだろうが、知らない所で一人で思い詰められるよりはずっとマシだ、たわけが!」




これは説教なのだろうか。結局彼は私の思考など全て見通した上で発言してくれているから、私が拒否する理由などなかった。本気でぶつかってきてくれていることを痛いくらいに理解したから、小さく頷く。それを確認した彼は目を細めて笑ってくれた。それは微かな表情の変化で、他の人ならば見逃してしまうかもしれないけれど。




「…案ずるな、お前は此処にいる。俺が保証してやろう」

「ここに、いる…」





一番欲しい言葉を言われた気がして、一度反芻したら一気に心が軽くなった気がした。遠回しに、私はここにいても良いんだと言われている気がして。さっきとは違う意味で泣きたくなった。消えたくない、ここにいたい。





(水曜日/それは水が浸透する様に似て)



彼の言葉に救われた、そんな三日目。



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