目に見えるものを無しとする程、俺は愚かではない。だが加えて、流れ込んで来た懐かしさと記憶に背を向けられる程利口では無かった。名前を思い出せぬのが信じられん程に鮮やかに蘇った幼き日、笑い合った思い出。元より女の涙には弱いことを自覚しているが、それを堪える表情は見ている俺が辛かった。
だから決心したのだ、何も覚えていないと言い、何をして良いのかも解らず押し潰されそうな彼女を、出来うる限り支えてみせようと。
「本当に、良かったの?げん、くん。」
「うむ。…それと、俺の名は弦一郎だ」
「弦一郎、くん。」
幽霊。俺の部屋で柔らかく笑う彼女はそういう類の存在。正直簡単に信じられぬ話だが、彼女の姿は俺以外には見えぬ様だし鏡にも映らない。共に廊下を歩いたとしても足音は俺の、一つしか聞こえなかった。
昨日の夜の衝撃的な再会の後、家に連れてきて。寝不足のまま学校へ登校してここまで考えを纏めた。そしてもう一つ気が付いたこと、それは常に彼女の姿を見られるわけではないという事実。気配が途切れることはないから存在が此処に有る事は認識出来るのだが少し不便ではある。
「わ…っ、危ないよ弦一郎くん!」
「む?…すまぬ」
「あ、ううん。ごめんね、すり抜けることはわかってるんだけどやっぱりなんだか怖くて」
気配は途切れぬと言ってもどんな体勢でそこに居るのか解らず、下手すると彼女に向かって動作をしてしまうのだ。因みに彼女に触れれば、まるで風の壁に触れるような不可思議な感覚が指先に走る。怖いなどとは、微塵も感じなかった。
「それよりどうだ、何か思い出せそうか?」
「…ごめんね。はやく思い出せるように頑張るから…迷惑ばっかりで本当にもう何て言ったらいいか…」
「…急かしている訳では無いぞ、特に俺は気にしていない。」
結局、御祖父様にも訊ねてみたが彼女の名前はわからなかった。ここ最近の事故や死亡者の名前を追ってみたとしてもピンと来るものは無い。
しかし現実は小説より奇なり、とは良く言ったものだが…幽霊は一般的に思いの強さからこの世に残ると伝えられているにも拘わらずどうして留まっているのかすら覚えていないとは…。どうにかしてやりたいのは本音だが、正直どうしてやれば良いのか俺にも解らない。
「…焦っても仕方ないだろう。お前には俺がついている。」
「…なんだか昔、同じようなことを弦一郎くんに言われたような気がするな」
「…そうだったか?」
「うん」
だが取り敢えず今は、こうして笑ってくれていることがせめてもの救いであるように願うだけだ。もし、彼女がこの世を謳歌出来なかったことが何処へも行けぬ枷となっているのならば、それを外すのは俺で在りたいとすら思う。これは、多分幼い頃の慕情の名残なのだろう。
「…弦一郎くん、明日も学校、なんでしょ?」
「うむ」
「なら、もう寝たほうが良いと思うよ。」
「お前は、…どうするのだ?」
「幽霊ってね、眠らないみたいだよ。どこかにメモしたら役に立つかも」
「……くだらん」
発した言葉が思った以上に柔らかい響きを出した。それに驚きながらも布団に入り、呼吸を整える。彼女の気配は何故か俺の妨げにはならないらしい。むしろ、全てから護られていたあの頃に感じていた安心感のようなものに包まれているような心持ちだ。静かに眠りの淵へと案内されるような心地よさの中、微睡む俺の耳に入ってきたのは酷く穏やかな一言。
「おやすみなさい、弦一郎くん。」
明日は学校で蓮ニに幽霊について尋ねてみる事にしよう。何か実になる話が聞けるかもしれぬ。俺は俺の目標と大切なものを決して見失ったりはしない、だがほんの少しだけ脇目を振ることを許して欲しい。もちろん一層鍛練に励むことは約束しよう。だが、ここで心を割いてやらんことは昔の俺に対する裏切りのように思えてならないのだ。
誰に言うでもない心の内、静かに芽吹く感情を何とすれば良いのだろう。そんなことを思案しながら緩やかに意識を手放した。
(火曜日/それは燻る火の如く)
幼き日の夢の続きを見る、そんな二日目。