「誰か!助けてー!」
「………。」
保健室へ向かう、はずだったのだが。その途中に大きな穴があって、しかも誰かがその落とし穴にはまっているようで中から声がしている。声の聞こえ具合からして随分と深い穴に落ちた様だ。これでは一人で出られまい。というかこの学園は至る所に見破れるレベルの罠が仕掛けられているので私はてっきり侵入者対策か何かで、学園の生徒は引っ掛からないようにしているのだと思ったのだがそうではないらしい。
さて、如何に。声の感じからして同情を誘うような幼い子供ではなさそうだが、助けるべきか助けざるべきか。数秒間の逡巡の後、結局私はその穴をひょこっと覗き込んだ。助けることを決めたのは良心が動いたからではなく、こんな罠にかかる奴の間抜け面を拝みたくなったから。そう、それ以上の気持ちはなかったのに穴の底にいた少年は幸運が舞い込んだと言わんばかりに大層嬉しそうに顔を輝かせた。
「すみません、どなたかは存じませんが助けていただけませんか」
「君は…見た所高学年だよね、どうしてこんな穴に嵌まってしまったの」
「いや…実はトイレットペーパーを運んでいる途中に石にけっつまずいて、転がっていったトイレットペーパーを追いかけたらちょうど落とし穴があったみたいで落ちました」
「それはまた…運が悪かったね」
「慣れたモンですけどね」
正に「不運」。それでも笑ってみせる彼の顔を見てその二文字が頭を掠めた時、目の前の少年の正体がわかったような気がした。成程、見捨てなくて正確だったわけだ。溜息を一つついて、周りを見渡してから隠し持っていた長縄を近くの木にくくりつけてから彼のいる穴へ下ろす。後はきっと自分で出来るだろう。そう思っていると、彼はものの数十秒で穴から這い上がってきた。
「ありがとうございました!」
「目立った怪我がなくて良かったね、伊作くん」
「はい…って、何故僕の名前を?貴女は誰ですか」
「…曲者かな」
自分の名を知られていたことに一瞬殺気を立たせたけれど、私の、答えになっていないであろう答えを聞いて彼は何故かその殺気をしまい込む。はて、と思ったけれど彼は最早安心しきった表情を浮かべている。近頃の子供は良くわからないなぁと思いながらさっき使った長縄を回収した。私の仕込み道具の多さは他の追随を許さない。それは、男にどうしたって力では勝てない女の知恵だ。力で勝てないのなら技術と知識で勝つしかないじゃないか。ぼんやりとそんなことを考えていたら確信じみた声で話し掛けられた。
「粉もんさんの、部下の方ですよね?」
「…うちの組頭はそんな美味しそうな名じゃないはずなんだけどねぇ。組頭の名は雑渡昆奈門だ。ああ見えて繊細な所があるお方だから覚えてやってくれ」
「ああ、そうでした!すみません!」
「いいや、別に。で、君はやっぱり伊作くんなんだね?」
「はい」
上から下まで、じいっと眺めてみる。所々泥や砂で汚れているがそれが気にならない位の端正な顔立ちとしなやかな体、柔らかそうな髪。疑う余地がないくらいの美少年だ。けれど優雅さの欠片もない所作で泥をはたきおとしている所を見ると、自分の外見を利用しているような子ではないらしい。いっそのこと清々しいほど男そのものである豪快な動き、媚びることのないそれには好感が持てる。
「改めてはじめまして、私は雑渡昆奈門の部下だよ。」
「あ、はい、よろしくお願いします」
「よろしく…というのも本当はおかしな話なんだけどね。我がタソガレドキと忍術学園は、敵ではないけれど味方でもないはずだから」
「はは、そうですね。…それより腕、少し見せていただけますか?」
ああ、話に聞いていた通りの、余りにも真っ直ぐすぎる眼差しだ。どうするべきか、と迷うより先に腕をとられて袖を捲くりあげられる。もちろん振りほどくことは容易に出来ただろうけど私はそれをしなかった。しかし、思ったよりも随分と目敏い子だ。数日前の忍務で負った、けして深くはない傷。勝手に塞がるだろうと判断して放置していたわけだが、やはり動かすたびに痛んでいた。顔に出していたつもりはなかったから、動きに出ていたのだろうか。
「傷の放置はいけませんよ、最悪の場合化膿して大変なことになりますから」
「あー、うん」
「保健室に行きましょう。怪我の具合を詳しく見て、薬を塗りますね」
花が咲いたような笑顔でそんなことを言われたから、妙に調子が狂いそうになる。一歩取り間違えれば能天気だと言っても過言ではないその笑顔が何故か眩しくてたまらなかった。環境がそうさせるのか人柄がそうさせるのか、それは定かではないが確かに一つわかることは、私はきっと生涯彼と同じ様な笑顔は浮かべられないということ。どんなに甘やかされてようと所詮私は根っからの忍で、今までもこれからも闇に生きる。そこに迷いなどありはしない。
けれど人は自分に無いものを求める生き物だ。組頭がこの少年を気に入っているのも理解出来る気がする。そんなことを考えながら私は彼が入り浸っているであろう保健室へ足を進めた。
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