午前0時、二度目のさよならは貴方から | ナノ

午前0時、二度目のさよならは貴方から

 ひどく億劫な朝だった。灰色の空はいまにも雨を降らせそうで、スマートフォンには一度寝ただけの男からのたくさんの着信。そんなものに起こされて作ったスクランブルエッグは火加減を間違えて、真っ黒焦げだ。仕方なく近くのコーヒーショップに行こうと羽織ったコートの袖には、いつの間にかシミができていた。
「お気に入りだったのに最悪だネ」
 肌寒い街を歩きながら、天童は溜め息を吐いた。この街に住み始めて数年経つがこんなについていない日は始めてだ。まだ何か起こりそう。当たって欲しくないときほどよく当たる勘に天童は苦笑をこぼして、路地裏の隠れた名店であるコーヒーショップの扉を開けた。

 ――最悪だ。

 神様など信じていないけれど、天に向かって“オレ何か悪いことした?”と、つい問いかける。扉を開けた先に立っていた人物、その人を天童はよく知っていた。
「……」
 目を会わせてはいけない。本能が告げる。天童が急いで踵を返すと、勢いよく二の腕が掴まれた。伝わってくる体温に、身体が震える。ダメだ、今すぐ逃げなければ。
「まさかこんなとこで会えるとは」
 低く、懐かしい声が、天童の脳を痺れさせる。頭の中の警戒音が鳴り止まない。しかし、天童の足は地面に張り付いてしまったように動けなかった。
「離して」
 振り絞って出した声はあまりにも弱々しかった。
「ああ、」
 名残惜しそうに彼――牛島若利――の指先が、天童の手の甲を撫でる。戯れというにはあまりにも艶かしい触れ方だった。かっと身体の芯から熱くなる感覚に、天童は思わず顔をあげた。
「ここで出会わなかったとしても、今から会いに行くつもりだった」
 息を呑む。全てを見通していると錯覚する真っ直ぐな瞳は、相も変わらず。天童はあの日々を一瞬にして思い出し、そして、あのときとは決定的に違う憎しみの滲む視線に耐えきれず目を伏せた。
「……どういうこと」
「ずっと探していた」
「なんで……っ」
「なんでだと?」
「お客様、コーヒーの用意ができました」
 天童は、ここが店内だったことを思い出す。牛島は気まずそうな店員からコーヒーを受け取ると、そのまま天童の手を掴み店を出た。

「俺の愛人になれ」
 店を出て牛島の開口一番の台詞を天童はすぐに受け止めることができなかった。「なにバカなこと」そう返そうとしたとき、天童のスマフォが鳴った。ロック画面には友人の名前が映っていた。
「出たほうがいいんじゃないか」
「出るよ……もしもし、トム……えっ?」
 トムの話す内容に背筋が凍る。満足げな牛島の表情に気づき、状況を理解するまでに時間はかからなかった。
『サトリ、すごいだろ? あのウシワカが僕のデザインを使いたいんだって!』
 ――トムと天童は数年前、デザイナーと、アシスタント兼専属モデルとして、ブランドを立ち上げていた。しかし売上は鳴かず飛ばず。トムのデザインは贔屓目なしでも優れたものだったが、残念なことに二人とも商才がなかった。
 これはチャンスだ。天童は静かに牛島を睨み付ける。牛島は意に介さないとでも言いたげに笑い返してきた。牛島は分かっているのだ。トムにとって、天童にとって、この提案は喉から手が出そうなほど魅力的だということを。
 “ウシワカ”――その名前をここ、フランスでも知っている人は多い。牛島は、元プロバレーボール選手だ。大学生の時にはすでに日本代表に選ばれ、卒業後はイタリアのチームに所属し、膝を故障するそのときまでヨーロッパリーグの第一線で活躍していた。三十代前半で現役引退後は実家の老舗和菓子屋を継ぎ、独自の路線でヨーロッパでの和菓子ブームを牽引し、最近では服飾デザイナーと和菓子のコラボレーションを行い注目を集めていた。――そして、そのコラボの次の相手としてトムが選ばれたのだ。これが成功すれば、ようやく、トムは陽の目を見ることができる。
「トムにひどいことしたら許さないよ」
「天童次第だ」
 牛島のずいぶんひどい言い草に、天童から思わず冷ややかな声がこぼれ落ちた。
「……その下らない遊びはいつまで?」
「下らないか。そうだな、……俺が満足するまでだ」
「……分かった」
「契約成立だな」
 伸ばされた手を仕方なく握る。すぐに手を解こうとすれば、そのまま牛島の力強い胸の中に抱き寄せられた。
「え?」
「無駄話はここまでだ」
「…………」
 近づく唇に、そっと天童は目を閉じる。久々の口づけは、飲み慣れたコーヒーの香りがした。

― ◇ ―

「っ……ふぅ……ん、」
 貪るような口づけだった。お互いの身体と身体を押し付けあい、天童の身体は充分すぎるほど反応していた。天童は余裕のなさに恥ずかしさを感じて、きっとこんな機会がなければ一生来ることがなかった高級ホテルのベッドに牛島を押し倒した。
「ムードがないな」
「若利くんからそんな言葉出るとは思わなかったよ」
「ジョークだ」
「面白くないね」
 牛島のネクタイに手を伸ばす。有名ブランドのものだ。高校時代、ネクタイをからかうように結んであげたこともあった。
「このスーツの色なら別の色の方がいいよ」
「参考にする」
 ほどいたネクタイを枕元に投げて、天童はシャツのボタンに手をかけた。一つ一つ、焦らすように外していく。はだけたシャツから見える胸板は、現役を引退したとはいえ大学時代よりも厚くなっていた。
「イイ身体だねえ」
 まじまじと見つめていると、牛島の手がもどかしげに腰へ伸びてくる。
「脱がないのか?」
 天童は上から微笑む。余裕がないのは自分だけじゃなかったようだ。牛島の上で着ていたセーターとインナーを脱ぐ。
「痩せたか?」
 牛島の熱い手が浮いたあばらをなぞり、天童はぞくりと震えた。
「適正体重だよ。重いでしょ」
「軽い。もっと食べた方がいい」
 この会話を昔、数え上げれないほど繰り返した。懐かしいはずなのに、感じるのは虚しさばかりだ。
「若利くん、」
 天童は思わず、名前を呼んだ。
「なんだ」
「本当にいいの?」
「……やめられるのか?」
 天童は下唇を噛む。下着の上からでも分かる。どんなに優位に立とうとしても、身体が無意識に牛島を求めていた。泣き出したくなるほど、触りたくて、触って欲しくて堪らなかった。
「噛むな」
 下唇を牛島のがさついた親指が撫でる。それだけで反応してしまう身体が嫌だった。彼の親指を咥え、甘く噛んだ。牛島の驚いたような顔が見える。数十秒、無心に舐め続け、ようやく離したとき口端から溢れた涎を拭う。
「じゃあ、はやく、やろ」
「……わかった」

 ――これは夢だ、大学時代の夢だ。
 あのとき二人は恋人同士という関係だった、たぶん。恋人だったと自信をもって言えないのは、一度も思いを確かめあったことがないからだ。同じ大学に通い、いつの間にか半同棲の生活をしていた。お互いがお互いのアパートで暮らしていた。
 初めてのセックスは牛島の二十歳の誕生日だった。関係は曖昧なまま、何かが欲しくて、お酒の勢いを借りて天童から誘った。若さゆえに実行できたことだ。今では考えられない。思い返すだけで恥ずかしい。あの日、牛島は何も言わなかった。されるがままに、天童の誘いに乗った。
 初めての行為は、鮮烈な痛みが身体中に走り、そのまま崩れてしまうのだと錯覚するほどだった。全てが終わり、牛島の胸元に倒れこんだとき、その体温に泣きそうになったのを天童は覚えている。
 その日を境に、会えば、時間があれば、どこででも、身体を重ねた。慣れない行為はいつの間にか、快楽しか感じないようになっていた。何度も何度も溺れるようなセックスを繰り返し、肉体の繋がりが強くなればなるほど、――怖くなった。
 天童は、牛島がいない未来を想像できなくなっていた。
 大学三年の冬、天童は逃げ出した。携帯の番号も、アパートも変えた。幸いなことに、そのとき残っていた授業はゼミだけだった。日本代表選手に選ばれた牛島は忙しく、広い校内で見かけることもなかった。
 逃げて、逃げて、逃げ続けた。
 就職して数年後、会社を辞め服飾関係の専門学校に通った。卒業後は日本でなく、フランスで仕事を始めた。専門学校時代に知り合ったデザイナー、トムの薦めだった。

 ――長い夢を見た。
 目を明け、隣を見る。牛島がいない。あれは夢だったのだろうか。心地よいシーツと、重たい腰が、あれは現実だと告げている。天童は気だるい身体を起こし、誰もいないベットシーツを撫でた。
「……どこ、行ったんだろ」
「起きたか」
 ドアが開く音に目線を向ける。上半身裸の牛島が入ってきた。シャワーを浴びていたのか、ベッドに腰かける牛島の髪は濡れていた。「濡れてるよ」と牛島の肩にかかったタオルに手を伸ばし、タオル越しに牛島の髪に触れた。
「髪は、」
「え?」
 タオルの下から声が聞こえ、天童は手を止める。
「元々こんなに黒かったのか」
 牛島に下から覗き込むように見つめられ、数十秒後、ようやく自分の髪のことを言っているのかと合点がいき首を横に振った。
「ううん、こっちのほうがウケがいいからね」
 フランスで始めてショーに出ることになったとき、黒髪に染めてとデザイナーに言われた。それ以来、ずっと染め続けてきた。
「そうか、」
「久々に地毛に戻すのもいいかもネ」
「そうか」
 分かりやすい牛島の表情のの変化に吹き出し、かつて牛島の表情は読み取りづらくて怖いと嘆いていた後輩たちを思い出す。
「何を笑っている」
「ううん、何もないよ」
「……そうだ、準備をしてくれ」
「へ?」
「今夜はパーティーだ」
 パーティー? 彼の口から聞き慣れない単語が聞こえてきた。聞き返す前に「天童、」唇が奪われ、熱い吐息が首もとにかかる。
「髪はもういい」
「……シャワー浴び直しだネ」
「そうだな」
 手首がゆるりと掴まれ、再びベッドに沈んだ。

― ◇ ―

「――ドレスコードあるの?」
 殻のついた茹で玉子をスプーンで叩きながら、尋ねる。牛島が連れてきたカフェはホテルから少し離れた眺めの良い店だった。
「ある」
「若利くんは何着るの?」
「着物を切る予定だ」
「ああ、」
 先日のゴシップ記事で見た。藤色の羽織がよく似合っていた。「塩は?」「ううん大丈夫」半熟の玉子をスプーンで掬う。
「着るの大変そうだよね」
「慣れれば簡単だ」
「えっ? 若利くん着付けできるの?」
「ああ」
「えー! すごい」
「……着るか?」
「うーん、それも素敵だけど、今回はうちの服着るよ」
「そうだな、それがいい」
 他愛もない会話ができている。天童は心の中で安堵の息を吐いた。今朝もだが、昨日のようなトゲは感じられない。このまま――このまま一体何を期待するのだろう。これは契約だと言い聞かせ、「じゃあ服を取りに帰るね」と口の中に入った、カラまで飲み込んだ。

「――若利くん、お金持ちになったんだねえ」
 しみじみと天童はため息を吐いた。約束の時間、アパートの前に黒塗りの長い車が停まっていたときもそう思ったが、パーティーの会場を見て想像以上の規模に、説明が足りなすぎると不満げに唇を尖らせた。
「周りがそう持ち上げてくれているだけだ」
「そう?」
「ミスターウシワカ!」
 シャッター音と、フラッシュの眩しさに目をつむる。撮られることには慣れているが量の多さに圧倒され、隣の牛島に目線を向ければ、普段通りの姿に彼は常に有名人であったことを再認識する。(ああ……)天童は息が詰まる苦しさに目を伏せ、微かに微笑んだ。
「その方は新しい恋人ですか?」
 記者の質問に、牛島とアイコンタクトを交わす。天童が答えは任せると挑発的に笑えば、力強い腕に腰が引き寄せられた。
「ああ、そうだ」
 一層大きくなるシャッター音。まさかゴシップ誌デビューが、牛島とのツーショットなんて天童は想像さえしなかった。二三質問が投げかけられたが、天童は何も答えなかった。馴れ初めも、相手の好きな部分も、あってないようなものだった。
「さあ、これで終わりだ。仕事についての質問は会社に連絡してくれ」
 終了だと牛島が強く宣言すると、記者たちは気圧されながら尚、「最後に恋人らしい写真を!」と声を上げた。
「いいよ」
「天童、」
 牛島の頬に指を滑らせる。天童が顔を寄せれば、牛島は不満げに眉を寄せながらも口付けを受け入れた。フラッシュとシャッター音が一段と大きくなる。
「良い宣伝でしょ」
「正式な場を用意してある」
「そうなんだ」
 唇をゆっくり離し、カメラマンに目線を送る。目元を隠すように牛島の手のひらが顔を覆った。
「見えないヨ」
「サービスはここまでだ」
「はーい」
 ひらひらと手を振って、喧騒を背に、会場へ踏み入れた。
 会場に入った瞬間、突き刺さる視線に天童は呆れにも似た溜め息を吐いて「若利くん」と、牛島の肩に手を回した。
「どうした」
「目線が痛いよ」
「直に慣れる」
「そうかなあ」
 昔から牛島は自分の魅力に気づいていないところがある。初めて連れてきた客人対する物珍しさだけではない、嫉妬の混じった視線に苦々しい愚痴をこぼして、天童は近くのウェイターからシャンパンを受け取った。
「人気者はつらいねえ」
 小さな呟きだったが「そうだな」と牛島が返したことに天童は驚く。顔を見れば、牛島は眉間にシワを寄せていた。
「顔、こわっ」
「元からだ」
「そんなことないでしょ」
「……挨拶に行ってくる」
「オレは?」
「また、……次の機会に」
「ふーん、そっかあ」
「飲みすぎるなよ」
「はいはい」
 三十も越えた大人に言うことじゃない。自分の限界ぐらい分かっている。過保護の物言いに失笑をこぼし、シャンパンに口をつけた。
「あ、おいしい」
「それは良かった」
 日本語の感想に日本語が返ってきて、天童は思わず振り向いた。そこには精悍な顔立ちの男性が立っていた。何かスポーツでもしてそうな体格だ。日本人には見えないが、その男性と目が合う。柔らかな赤毛がトムと同じだ、そんなことを思いながら「日本語お上手ですね」と声をかけた。
「勉強したんです。ああすみません、挨拶が遅れました。僕はアレックス、ワカトシの友人です」
 若利くんの友人という言葉に、ほんの少し緊張を解く。
「天童覚です、若利くんの……」
 ふいに、言葉に詰まってしまった。天童は友人とすぐに返せば良かったと後悔する。喋り出してしまったから、何か答えなければいけない。
「あー……マブダチ……」
 苦し紛れに昔よく言っていた単語を呟く。「マブダチ?」とアレックスは首を傾げた。
「……最高の友達ってこと」
 説明を付け加え、天童は自分自身の言葉に笑う。
「それは素晴らしいですね」
 アレックスは優しく微笑み、ウェイターに次の一杯を用意させ、天童に手渡した。
「このシャンパン、アレックスが用意したの?」
「はい。ここは私のホテルですから」
「え?」
「ワカトシは何も説明していないみたいですね」
 困ったようにアレックスは眉を寄せ、やれやれと首を横に振った。
「今日はここのオープンパーティーなんです」
 爽やかに放たれた言葉に、ナプキンペーパーに描かれていたロゴを思い出す。昨夜、牛島が泊まっていたホテルと同じロゴ。目の前に立つ人物は一流ホテルのオーナーなのか。天童は深く溜め息を吐いて、「そういうのは教えてほしいよねえ」と小さく呟き、「素敵なホテルですね」と笑顔を作る。
「僕もワカトシがこんなに素敵な方を連れてくるのなら、教えてほしかったです。この後のご予定は?」
「えっと、この後?」
「上の部屋の内装にもこだわっていて、興味があればご案内しますよ」
 アレックスの手が、差し出される。冗談か冗談じゃないのか分からず目を瞬かせると、心の内を読んだように「あなたと二人で過ごしたいと思っています」とストレートに伝えられ、天童は面食らう。
「そ、れは、」
「ダメですか?」
「駄目だ」
 後ろから肩が抱き寄せられ、天童は息が止まると思った。「わかとしくん」牛島の名を呼ぶと、肩を抱く手が強まる。
「恋人がいる人間に手を出す趣味でもあったのか」
 厳しい牛島の声が響く。
「そんな趣味はないけれど……ねえ、ワカトシ。サトリは君のこと恋人とは呼ばなかったよ」
 答えるアレックスの声も刺々しい。
「……それでも駄目だ」
(あつい)
 早まる鼓動を落ち着かそうと、牛島の手に離してと触れる。目線をあげれば、牛島は不安げな顔をしていた。
「なんで……」
「サトリ」
 アレックスに名を呼ばれ、はっと目線を移す。天童は軽く息を吐いて、二人の間に立ち、アレックスの方を向いた。
「アレックス、とても嬉しい誘いだけど断るよ。今度来るときも若利くんと来る」
「それは、残念ですね」
 アレックスは残念だとポーズをとる。牛島の表情が気になって、天童が振り返ろうとすれば、手がぎゅっと握られる。
「……よかった」
「な、」
 なんでと口から溢れそうになった天童の言葉はアレックスの「最後まで楽しんでくださいね」という言葉に遮られる。「ああ、うん」心あらずのまま返事をして、牛島の顔を見たときにはいつもの表情だった。
「若利くん」
「どうした」
「美味しいチョコを見つけたヨ」
「相変わらず好きなんだな」
「うん、まあね」

― ◇ ―

 天童はパーティー帰りの車に揺られながら、横目で牛島の表情をうかがう。牛島は外を眺めながら、うつらうつらと揺れている。
「……お酒、弱いんだね」
「……ああ」
 牛島のとろりとした瞳を見つめ、下唇を噛む。側に行きたいと、思ってしまった。ずるりと、溺れていったあの日々みたいだ。
「……何を考えている」
「何も」
「嘘だ」
「どうして」
「俺は、その目を知っている」
「え?」
「許さない」
「……」
「いなくなるな」
「……っ! オレは、」
「何も聞きたくない」
「……ぁ」
 牛島の顔が近づく。喋ることは許されない深い口づけを受け入れ、天童は瞳を閉じた。

「――どうしてこうなっちゃったのかな」
 天童はうつむき思わずこぼす。今朝のことを思い出し、また頭を抱えた。
『仕事に行ってくるよ』
 シャツのボタンをかけながら天童はそう言った。
『……ああ』
 昨夜のアルコールが残っているのか頭が痛そうな牛島の表情に天童は絶句する。言うなれば捨てられそうな子犬、なぜそのような顔をするのだ。
『ええ……何その顔』
『どんな顔だ』
『…………』
『なんだ』
『頭が痛そうな顔』
『……痛いからな』
『お仕事頑張れ』
『ああ、』
 そんな会話を交わし、ホテルの部屋を出たのだ。
「浮かない顔してるね」
「トム……」
「驚いたよ、まさかサトリとあの! ウシワカが知り合いだったなんて」
「昔のね」
「幼なじみ?」
 トムの言葉に笑う。また何か新しい漫画に影響されているのか、「そんなロマンチックな関係じゃないよ」と天童は大きく背を伸ばした。
「オレとね若利くんはマブダチなの」
「マブダチ?」
「ベストフレンドってこと」
「……ふーん」
「トム?」
「充分ロマンチックじゃないか、それでどうしてそんな浮かない顔なんだい?」
 朝買ってきたコーヒーに口をつける。
「トムはさ、好きで好きで堪らなくてずっと一緒に生きたいと思った人ができたらどうする?」
「え?」
「……昔ね、そういう人がいて、オレはね、逃げちゃった」
「どうして!」
 トムが驚いたような声を出す。
「怖くなったからかな」
「怖い?」
「ずっと一緒にいたくて、でも側にはいたくなくて、自由でいたくて、ずっと見ていてほしくて、好きなことしかやりたくないのに、なんでもやってあげたかった」
 昔の感情をなぞるように、天童はぽつりぽつりと話し出す。矛盾した気持ちを一人抱え込み牛島と過ごす日々は息苦しく、壊れそうだった。今思い返せば、むしろ、壊したかったのだ。
「オレはオレの生き方しかできないし、そこに後悔はないけど、その生き方は彼にはふさわしくなくて……」
「ねえ、サトリ……」
 トムが口を開いた瞬間、激しく作業場の扉が開く。
「あ、ウシワカだ!」
「え? 若利くん?」
「ミスタートム、すまない。今日はデザインについて打ち合わせだったが後日に変更していいだろうか?」
 部屋に入ってきた牛島に矢継ぎ早に言われて、トムはただ頷く。天童は目の前に牛島が現れたことに混乱していた。
「え? ああ、うん、構わないよ」
「ありがとう、お土産は……」
 牛島の目線が、お土産と言って持ち上げた袋を置く場所を探している。
「適当に机に置いてくれればいいよ」
「すまない。……天童、」
「え?」
「行くぞ」
「うん、いってらっしゃい」
 トムに立つように促され、立ち上がる。牛島に腕を掴まれ、部屋を出た。(デジャブ……)ぼんやりと牛島と再会した日を思い出し、掴んだ手はあの日よりずっと優しいことに天童は不思議だと感じながら、前を歩く牛島を見つめた。

 人通りが少なくなった川縁の道で牛島は立ち止まった。腕は掴まれたままだ。
「あれは、誰のことだ」
 牛島は背を向けたまま話し出す。
「あれ……?」
「先程話していたことだ」
「聞いてたの」
「立ち聞きする気はなかった、すまない」
「……わかとしくんのこと、」
 「って言ったらどうする?」と冗談めかして続けるつもりだった。突然振り返った牛島が、天童の肩を掴む。強い力で掴まれた痛みよりも、前を向いた牛島の表情に天童は驚き、言葉を失う。何故、今にも泣き出しそうな顔をしているのだ。
「俺は、あの日……遠征から帰ったとき天童がいなくなっていた気持ちが分かるか? ……置き手紙だけ残されて訳が分からなかった……携帯は繋がらない、アパートはもぬけの殻だ……捨てられたんだと思った」
「捨てるなんて、」
「……考えたことがなかった、天童のいない未来を」
「……っ!」
 それは、オレもだよ。首の奥が絞めつけられる。心臓は早鐘を打つ。あの日のことを、あの日々のことを、牛島の口から聞くのは初めてのことだった。
「……くそ、」
 悪態をつく牛島の姿を見るのも初めてだった。
「若利くん……?」
「……同じことをしてやろうと思った……愛人契約なんて馬鹿げた手を使っても……」
 震える牛島の姿に、あの日の罪を自覚する。牛島は平気だと思っていた、きっと強く、新しい道を歩き続けるのだろうと。でも違った。気づいていながら、見ないふりをしていた。牛島は天童が部屋を去るとき、悲しげに目を伏せる。
「ごめん、」
 天童は、耐えられず声をあげた。牛島のトラウマになってるなんて考えたこともなかった。
「オレは、わかとしくんに、ふさわしくない」
 ぐっと肩を掴む力がさらに強くなる。牛島は、泣いていた。そんな顔、させたくなかった。天童が顔を歪ませれば、牛島は天童を力いっぱい抱き締めた。
「相応しいとか相応しくないとか、そんなものっ誰が決める! 俺は、天童と一緒にいたい」
 天童の目から、涙が溢れ出す。はじめてだった、一緒にいたいのだと告げられたのは。言っていいのだろうか。震える手で牛島の背中を掴んだ。
「若利くん、」
「……ああ、」
「オレも一緒にいたい、若利くんと……!」
「天童っ!」
 抱き締めていた牛島の手が離れる。見つめ合う顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
「ごめんね、好きだよ、若利くん」
「俺も好きだ。……どうしてだろう、はじめて聞いて、はじめて言った気がする」
「はじめてだよ、二人ともね」
「……俺たちは色々話さないといけないことが多すぎる」
「そうだね」
 微笑みがこぼれる。天童は牛島の顔に手を伸ばした。
「愛人契約は終わりだよね」
 意地悪く笑えば、牛島は気まずそうな表情で頷いた。
「当たり前だ」
「ねえ、若利くん。――オレと、付き合ってください」
 呆気に取られる牛島に「返事は?」と首を傾げる。
「決まっているだろう」
 近づいてくる顔に、目を閉じる。付き合って初めての口付けは涙の味だった。

― ◇ ―

「若利くん、そろそろ予定の時間じゃないの?」
「…………そうだな」
「そうだなじゃないヨ! 全然出発する気ないじゃん!」
「そんなことはない」
「ほら!」
「天童、」
 手を伸ばす牛島の、腕の間に素直にすっぽりと収まる。
 付き合い始めたあの日、牛島と天童は夜が明けるまで話し続けた。大学時代のことから、最近のジャンプの新連載のことまで。まさか牛島が定期講読してるとは。お互いの話の中で、はじめてわかることばかりだった。
 抱き締められながら「行くよー」と少しずつ移動する。
「また秘書さんに怒られるよ」
「そうだな……」
 のろのろと動き出した牛島の背を見つめ、旅行カバンの鍵を閉める。
 牛島とトムのコラボは順調な滑り出しだった。フランスだけではない、日本のメディアにも取り上げられ、モデルとして採用された天童の元にも取材の申し込みがあった。
「若利くん」
「どうした?」
「オレもね、行くよ」
「え?」
「日本! 久々に帰るんだー。違う便だけどネ!」
 用意の終わった牛島に、日本行きの航空チケットを見せる。サプライズにと、隠していたのだ。
「……同じ便にする」
「だめー!」
 「日本に帰ったらどこか行こうよ、久々だから案内してね」そう約束をして、まだ何か言いたげな牛島の背中を押す。
「天童、」
「うん」
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
 軽い口づけを交わす。「乗る便と、到着時間を送っておいてくれ」と別れ際に念を押すように言われ、うんと頷く。久々の日本だ、実家にも帰る予定だ。(若利くん連れていったらどんな顔するかなあ)ぼんやりと両親の表情を想像しながら、天童はアパートの扉を閉めた。

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