算数


「お、終わった」

最後の計算書類に数字を記入し、私はほっと一息ついた。

数字を扱うのは比較的得意なのだが、量が多いとつい目を背けたくなる。そして、背けた結果がこれだ。

人間って痛い目を見ても、すぐ忘れちゃうんだよね。

なかなか懲りない自分に我ながら呆れてしまうが、今はこの書類を提出するのが先だ。この計算書類がすんなり通れば、少し余裕ができる。私は軽い足取りで、ジャーファル様のところへ行った。

が、世の中そんなに甘くない。

書類は問題なく判を押してもらえたのだが、席に戻ろうとすると私を、『お願いがあるんですが』と引き留める上司の声。耳を塞ぎ聞こえないふりをしようかと逡巡している間に用件を言われてしまった。

「シノ、マスルールから収支報告書をもらってきてください」
「………え?」

お願いされた仕事は、普段ならありえないもので、私はすぐに反応できなかった。

書類作成が破滅的なまでに苦手なマスルール様の部隊には、狙ったかのようにインテリ副官が配置されている。毎月の収支報告書はその方の名で作成されていた。非常に正確かつ丁寧に作られた報告書は、私が財務に移ってきてから一度も遅れたことがない。

「聞きたくないのですが、副官の方は」
「連日の暑さで倒れたそうで」

夏バテですか!常夏の国なのに、暑さで倒れないでよ。武官でしょと、机をたたきたくなった。ぐったりする私に、上司は無情にも『今日中に何が何でも、もらってきてください』と追い打ちをかけた。『手段は問いません』という笑顔がまぶしい。

それって、すわち…。いや、単に提出忘れなだけかもしれない。私は到底叶いもしない希望にすがり、赤蟹塔へ向かった。


「ということで、私がやってきたのですが、マスルール様、収支報告書ってどうなっていますか?」
「………」
「………何ですか、その無言」

見つめあうこと数秒。反応がないマスルール様に嫌な予感がする。副官の机の上を漁らせてもらえば、案の定、既定の用紙が真っ白で出てきた。

あぁ、めまいがする。私も夏バテで副官のように倒れてしまいたい。

副官さん倒れたの先週ですもんね、出来てなくて当然ですよね。というか、作らせる気満々で私を送りこみましたよね、ジャーファル様。

現実逃避しても、ここにいない上司に文句を言っても、この用紙は埋まらない。

私は観念し、無表情ながらも少し困っているように見えなくもない巨大筋肉、ではなく、マスルール様を見上げた。

「今回は仕方ないので私が作ります。今後はこのようなことがないように、作成できるようになってくださいね」
「…………」
「だから、何ですか、その無言!あなたもう少し喋りましたよね」

ぺらぺらしゃべるタイプではないが、明らかに今よりは喋っていたはずだ。シャルルカン様が話題だった時なんて、『先輩が面倒っす』って愚痴ってきたじゃないか。

マスルール様は少しだけ私の視線に耐えたが、『せめて返事を!』という私のオーラに負け、『すんません』と謝った。

「できるようになってくださいね」

と、私は強く繰り返した。

すると、マスルール様はこくりと頷いた。

頷いたのだが、分かってしまった。これはできるようになる気ない、絶対そうだ。普段、胸倉を掴んで『お前は!』と暴れるシャルルカン様の気持ちが今少し分かった。

が、私は財務官。暴れたい心を押し殺し、さっさと目的を果たすよう動いた。

「…マスルール様以外でもいいです。どなたかできるようになってくだされば」

その台詞で、マスルール様は勢いよく後ろを振り向いた。今まで、『財務の嬢ちゃんが来たぞ』『今日もこえー』と私達を遠巻きに見ていた武官が一斉に視線を逸らした。

そんな中、マスルール様がある名前を呼んだ。すると、『ひぃ』という悲鳴の後に、まだ若い男性が周りに押し出されるように転がり出た。彼を取り囲む仲間の彼を見る目は、自分じゃなくてよかったという安堵と、まるで死地へ出向く友人への憐憫が浮かんでいた。

失礼な。

「あ、あの、優しくしてくださいね」

筋肉隆々の男性らしからぬ言葉を吐かれた私は笑顔で返した。

「速度重視でいきますね」

上司直伝の笑みに周りから悲鳴が漏れた。『ジャーファル様だ、ジャーファル様がいる』なんて聞こえてきたが、そんなこと知らない。

「あっ、マスルール様はここにいてください」

視界からそぉっと消えようとする責任者を止めれば、小動物のように肩が揺れた。

「俺もっすか」
「おそらく帳簿をつけていないと思いますので、事実確認のためこちらにいてください。あるなら帳簿を出していただければよいのですが」

帳簿つけてませんよねー。そんな心の声が聞こえたのか、マスルール様は『うす』と大人しく呟いた。

結局マスルール様の『覚えてないっす』連発で部隊の他の方も加わり、大人数での事実確認が行われた。彼らの適当すぎる記憶をもとに、なんとか収支報告書を仕上げたのはこちらに来てから数時間後のことだった。

ちなみに、あちらの部隊では私に『2号』と渾名がついた。非常にうれしくない。

帳簿がないため、推定がいたるところに入った収支報告書。滅多に見ることのできないそれを提出したマスルール様に、『次はないですよ』と笑顔で言う1号を見て、私はため息をついた。

prev next
[back]


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -