君の幸せを、祈ります。
土井が安アパートの錆びた階段に足を乗せれば、ぎしりと不穏な音を立てた。
いい加減に引っ越すべきだろうかと思いながら二階に上がり、自宅のドアを開ける。
「ただいまー…」
部屋の明かりに目を細め、靴を脱ぎながら声をかけると、同居人のきり丸が玄関に姿を見せる。
「おかえり、先生。今日は遅かったな?」
「あー…明日の授業の資料を用意していたら、つい」
「どうせ夢中になって時計見てなかったんだろ?」
全く、と呆れ顔できり丸が差し出した手に鞄を預け、返す言葉もなく視線を逸らしてネクタイを緩めた。
間もなく大学を卒業するきり丸は、授業以外の時間の大半をアルバイトに費やしているのだが、土井が頑として家賃を受け取らない為、その代わりにと家事をしている。
教師である土井が学校から帰宅する頃にはこうして家で夕食の支度を済ませているし、朝には朝食と共に昼の弁当まで作ってくれる。
そんな家政婦のようなことまでしなくて良いのだと言ったこともあるのだが、別に苦にならないから構わないと軽くあしらわれてしまった。
「風呂も沸いてるけど、夕飯とどっち先にする?」
「んー…夕飯で。流石に腹が減ったよ」
「はーい。んじゃ手ぇ洗っといて。あと上着とネクタイ貰うから」
急かされるままに上着とネクタイを預け、洗面所で手を洗う。
そうしてふと、先程のやりとりはまるで新婚夫婦のようだったなと思い返して、気恥ずかしくなった。
「せーんせー!早くしないと冷めるよー!」
きり丸の声で我に返った土井は、慌てて居間に向かい、テーブルに着く。
二人揃っていただきます、と手を合わせ、夕食を食べ始める。
食事中の話題は他愛もない日々の出来事ばかりで、きり丸の友人の話や土井が担当する生徒達の話になることが多かった。
「そういや、悪ガキ達は相変わらずヤンチャしてんの?」
「まぁな、元気すぎて手を焼いてるよ…昔のお前達に比べれば可愛いものだが」
「ちょっとー…これから教師になるっていう人間にそういう事言う!?」
「はは、だが事実じゃないか」
きり丸の文句に笑いながら返せば、そりゃそうだけど、と拗ねてしまった。
その横顔が、出会った頃のまだ幼かったきり丸を思い起こさせる。
土井が初めて担任として受け持ったクラスで、当時中学生だったきり丸は些か周囲から浮いていた。
普段はクラスメイトと楽しそうにはしゃいだり馬鹿なことをやったりと、どこにでもいる子供に見えたが、時折見せる何かを諦めているような顔や、皮肉に満ちた言葉が、まるで威嚇してくる猫のように思えて。
そうして何かと構っている内に、きり丸が施設育ちであること、中学を卒業したら施設を出なければならない為、進学はせずに就職するつもりでいることなど、色々と知った。
どうしようもない、別にどうでもいいと、どこか投げ遣りになっていたきり丸を放っておくことが出来なくなってしまった土井は、半ば無理矢理きり丸を自分の家に住まわせ、高校へと通わせた。
元より賢く、勉強が嫌いではなかったきり丸は、少しずつ態度を軟化させ、土井と同じ教師を目指すようになった。
今では春から勤める学校も決まって、あの子供が、と思えば感慨深く、無意識に声が落ちた。
「……大きくなったよなぁ」
「…何だよ、いきなり」
訝しげな視線を投げて来るきり丸は、あの頃のどこか荒んだものとは違う、本来の彼らしい真っ直ぐな瞳をしている。
「いや、立派になったと思ってな」
手を伸ばして髪を撫でれば、恥ずかしそうに目を伏せたきり丸がゆっくりと口を開く。
「…先生の、おかげだよ。俺、自分がこんな風に学校行ってさ、ちゃんと教師になるなんて、思って無かったし」
まだ少し、自分を卑下するような言葉を使うきり丸に、胸が痛む。
「夢とかさ、持てるわけないって。それでも、きっと何処でだって生きていけるから平気だって。……だから、本当にありがとう、先生」
礼を言うのは自分の方だ、と土井は思う。
土井自身、きり丸と似たような育ち方をして、あまり他人を信用していなかった。
それでも人間と関わることをやめられずに教師になったのだが、きっと自分は誰のことも愛せずに独りでいるのだろうと、そう思っていた。
だから、今こうしてきり丸を愛しく思うこと、毎日ささやかな幸せを感じること、それは全てきり丸がくれた物なのだ。
「…頑張ったのは、きり丸だろう。ちゃんと、自分を褒めてあげなさい」
おいで、と腕を引いて、隣に立ったきり丸を膝の上に抱き上げる。
「ぅわっ…な、何だよっ!」
「お前は自分を甘やかすのが下手だからな、代わりに俺が甘やかそうかと」
「何言ってんの!?降ろせって!!」
顔を赤くしてじたばたと暴れるきり丸だが、大柄な土井にはどうということもなく、暫くして大人しくなったきり丸の髪を、優しく撫で続けた。
少しでも、伝わればいい。
土井がどれだけきり丸に救われたか、そして、どんなに愛しているか。
そう願いながら、きり丸の額にそっとキスを送り、囁く。
「……卒業、おめでとう」