「ひまだー…あついー‥ひまだー」

「あのな、名字」

机に突っ伏したまま目だけを動かして、向き合うように座る私を見上げる少女は、う?と少しまぬけっぽく反応した。

「課題がまったく終わってない奴は“暇”とは言わないぞ、」

そう、この名字は学年で唯一の補習者で、せっかくの夏休みを補習授業で潰すことになっているのだが、さっきっから一向に問題を解かずにぐだぐだとしている。午後という一番暑い時間帯に勉強をしなければいけないだるさは分からないでもないが、教科担当というだけで一緒に夏休みを潰さなければいけない教師の身にもなってほしい。

「だって土井先生、分かんないんだもん。」

「分からないなら早く質問すればいいだろう、その為に私がいるんだから。それで、どこが分からないんだ?」

「何が分からないのか分からない」

いたずらっぽく笑って言う名字に思わず溜息がでる。期末テストよりも簡単な問題を選んで課題を作ったというのに…。

「分からないって名字、授業でやった時お前解いて正解していた問題だぞ?」

「そうでしたっけ?てゆーかよく覚えてますね、あたしが正解したかなんて」

暑い。私のこめかみを汗が伝い落ちる。

「それは、生徒のことを見ているからな。」

ふぅん?と何か言いたそうに首を傾げる名字にいいから早く課題をやるように言うと、はーいと気の抜けた返事をしてようやく課題にとりかかり始めた。

開け放たれている教室の窓から風が入ってきてカーテンがフワリと揺れた。制汗スプレーの匂いだろうか、名字から柑橘系の香りがする。
視線を名字に向けると課題のプリントにシャーペンを走らせていた。栗色の髪の毛が風によって少し揺れる。細く白い首を眼で辿っていくと、白いブラウス。大袈裟なほどに開けられたボタン。白、に透けている。淡いピンクだ。それは、

「先生、」

「っ何だ、名字?」

「終わりましたよ」

「え、」

「課題」

そう言って名字は私にプリントを差し出す。

「あ、ああ。」

どもりながらもプリントを受け取り、目を通す。ちゃんと解けている。

「ね、先生」

「なんだ?」

身を乗り出して話しかけてくる名字。開けられているブラウスからのぞく胸は両腕で寄せられ谷間がつくられている。あ、ピンク。

「補習授業、今日で終わり?」

「ん?ああ、そうだな。」

そっかーと相槌をうちながら名字は鞄から飴を取り出して、口に入れ舐め始めた。マイペースにも程がある。

「せん せい、」

紅い。
赤い唇が動いた。

「な んだ‥?」

「あたしね、暇が潰せて楽しかったの。けど、せんせいのせっかくの夏休み、あたしのせいで無駄になっちゃったから、せめてあたしが、ご褒美あげる」

は?っと、問い返す前に紺色のスカートが揺れて、さらに身を乗り出した名字の赤い唇が触れた。突然のことに私は目を開いたままで、名字と目が合った。今日初めて目が合ったような気がするが、それがこんな状況とか。
半開きだった私の口に柔らかいぐにっとするものが滑り込んできた。それと一緒に何か固いものも入ってくる。甘い。飴、だ。

そうして、私から紅が離れていった。
はっ、と息をつく。目の前に女性がいる。
赤い唇が弧を描いた。

「せんせ、」

まだ、赤は動くのか。

「ごめんなさい」

「は、」

女性が、少女に戻った。

眉を下げて言った名字は鞄をひっつかむと教室を飛び出して行った。

「…違う」

何に謝られたのか分からないがとにかく違う。

「違うぞ、名字」

それは暇潰しでも何でもない。お前の感情は。それは。だって、違う。お前のことを、
私は─‥。

気付いた時には私は教室の外へと走り出していた。