いくら夏だからってちゃんと乾かさないと風邪引くよ




あまりの気配の無さに驚いて振り向くと俺を見下ろす名字がいた。気を抜いて縁側に足を投げ出して涼んでいる俺にとって驚くには十分なことだ。それなのに名字はなに食わぬ顔で平然と立っている。ここ忍たまの長屋なんだけど、と言いかけてやめた。彼女の手に握られている紙で大体察したからだ。俺はまだ提出していないそれは机の上に剥き出しに置いてある。まだ何も書いていない真っ白なまんま。




「風呂上がり?」
「ああ」
「珍しいね、鍛練しないなんて」
「なんか気分じゃなくてな」
「ふーん」
「早く行かなくていいのか?」




目だけで訴える。先がその紙に繋がっているのがわかったのか、ああ、これね、と目の高さまで持ち上がる。夜風がそれをひらひらと揺らす。今日は星がよく見える所為か紙の内容が嫌でも目に入る。




「もう大体決めたんだろ?」
「そうだね、後は山本先生か他の六年の先生方に提出するだけ」




そうか、興味なさそうに答えて焦る。仙蔵と長次はいち早く一昨日提出し、それの後を追うように伊作と留三郎は昨日提出。考えてなさそうに見えた小平太は今日提出した。締め切りはまだ大丈夫だけどいつまでたっても答えが出ないような気がしてついには向き合うこともやめた。たった一枚の紙切れに集中力を持っていかれ授業も集中できない。帳簿もミスの連続で田村には心配をかけられ、終いには日課の鍛練までできなくなった。ただ良い就職先を紙に三つほど書いて提出するだけの作業に手こずり紙切れに踊らされる。情けないと思い小さく息を吐いた。

隣でどっこらしょ、とババくさい掛け声が聞こえた。見れば既に腰を下ろした名字が当たり前のように横で居座っていた。おい、俺許可取ってないんだけど




「そうケチケチしない、いちいち気にしてたら禿げるよ」
「喧嘩売ってんのかお前?」
「売ってないし煽ってもいない、でもそうやって言動のひとつひとつに反応してたら本当に禿げるんじゃない?中心から徐々に」
「お前どこまで俺を怒らせたいんだ?」
「だから今は適当に書いちゃってさっさと提出すればいいのよ、何をもったいぶってるか知らないけど」




首が勢いよく向いた。驚いている俺をケラケラと笑う名字に思わずシワが寄る。顔ひどいよ、とすかさず言う名字。普段なら言い返すが今はそれどころではない。つまり、コイツは‥




「見事な真っ白だったね、その手拭いのように」
「見たのかお前‥!」
「寝不足でもギンギンな潮江が調子崩すなんて思い当たる節これしかないし」




卒業後が怖いの?俺を見ないで投げ掛ける。あまりにも真っ直ぐな言葉に思わず即答することができない。黙っている俺に当たり?と聞いてくるのが本当に汚い。どうせわかってるんだろ?やさぐれる俺に見ててわかりやすいんだよ潮江は、そう言ってはクスリと笑う。わかりやすいなんて言われたらコイツには何を言っても隠せない。観察力が良い名字のことだ。全てお見通しなんだろう。
はぁ、と溜め息を吐いた後お手上げ、と言わんばかりに丁度肩に掛けてある手拭いを手に掴んで白旗のように降った。それを見た名字がまた笑う。




「あの強情な潮江くんがあっさり降伏するとはね、明日は槍だ」
「うるさい、バカタレ。お前、観察力良すぎなんだよ」
「ありがと、それでやっぱり怖いの?」
「想像がつくから怖いんだ」




卒業して立派なプロ忍になってもし戦場で今の仲間に出会ったら‥
夏なのに強張って次第に震え出す身体。こんな状況はいずれ出会うとわかっている。でも六年間学舎で共に俺達は過ごしてきたんだ。




「それに忍だって人間なんだ。全ての感情を押し殺せるものじゃない」




これでギンギンに忍者をしてるなんていえた口か、と隣で嘲笑しているに違いない名字に黙っていると意外に降ってきたのは「当たり前じゃん」の一言だった。




「忍者だからといって全ての感情を押し殺せるわけじゃないのはくノ一だって一緒。それが出来るのは殺すことに慣れてしまった人だけだよ」
「‥お前でも怖いと感じることはあるか?」
「あるよ。でも潮江みたいにこの先に怯えている人はいっぱいいると思うよ」
「でもあいつらはすぐに提出した」
「立花、七松、中在家、食満、善法寺、皆それを顔に出さないだけで考えていると思うよ。ただ、今こんなこと考えたら気疲れしちゃうし」




それに実際に戦場で出会っても戦わなければいい。
そう言って徐に腰を上げた。「そろそろ行くね」「ああ、ありがとな」立ち上がった名字の前にまた夜風が吹いて握っている進路用紙がひらひらと舞う。今ならちゃんと向き合える気がした。遠のく背中と揺れる紙を眺めて今度こそは書けると思った瞬間、そうそう、と名字が振り向いた。




「進路用紙そのまま提出してね」
「‥はっ?」
「あとただ観察力がいいだけだで潮江の調子が悪いのがわかると思った?」




それは違うよ、笑う彼女はそう残して去っていった。





夏の夜風





部屋に戻ってにやけ面の仙蔵からまだ乾いていない紙を渡されて見てはやられたと思った。受け取った紙にはしっかりと先程見たばかりの字と就職先の名が三つ書かれていた。「名字め‥」アイツは最初からこれが目当てで来たのか。抜け目がない奴だと笑ったらすぐに気持ち悪いぞ文次郎、と言われた。