頬を撫でる生ぬるい風が気持ち悪い。湿り気を含んだ制服が肌にまとわりつく。陰鬱な梅雨空は今にも泣き出しそうなほど低く、分厚い灰色の雲が重く垂れ込めていた。私の読み通りなら時間の問題だろう。下校途中だった私は鞄を握り締めると一目散に駆け出した。 ほんの一瞬辺りが明るくなる。ヤバいと思うより数秒遅れて耳をつんざくような雷鳴が轟いた。雷って見るのは綺麗で好きだけど音は少し苦手。 ───早くどっかの建物に入らなくっちゃ。 懸命に走れば蒸し暑さでブラウスの下を汗が流れ、開いた胸元からむっとした熱気がたち上る。水着の入ったサブバッグが大きく揺れて邪魔だ。 びしゃりと頬に雨粒が当たった。地味に痛い。視線を落とせばアスファルトに落ちた雨粒はウズラの卵より遥かに大きかった。 ───来る! もうこれ以上耐えきれなくなった空からは、堰を切ったように大粒の雨が降り出した。もう傘なんかさしても無駄だろう。駅まではまだかなりある。何もないよりかはましだと、私は仕方なく目に入ったバス停に飛び込んだ。 幸い今日の体育は水泳だったから大判のタオルを持っている。私は少々湿ったそれを取り出すと身体を拭き始めた。それと同時に降りだした雨はまるで熱帯のスコールのような土砂降りになって、地面に落ちた雨粒の跳ね返りで屋根付のバス停にいるにもかかわらず私の足下はびしょ濡れになった。 うんざりとした気持ちで顔を上げれば、灰色の塊が猛スピードでこちらへやって来るのが目に入った。雨避けに白い鞄を頭にかざしている彼はうちの学校の生徒のようだ。だが俯き加減で走る彼には屋根の下にいる私が見えていないのか、こちらに向かって突っ込んできた。 「おほー!すっげえ雨!」 飛び込むや否やエナメルのショルダーを無造作に待ち合い席へ放り投げながら、彼は顔に付いた水滴を日焼けした手で拭った。ダメっ、座席が濡れるじゃん、そう思ったけど今の雨で乾いている椅子はもうどこにもない。だが無意識に「あっ」と声が出たことで初めて彼は私の存在に気付いたようだった。 「あ…名字!」 少し傷んだ髪の先から雫を垂らしながら大きな目を更に見開いた彼は、快活そうな声で私の名前を口にした。何で知ってるの?そりゃまあ、隣のクラスだから知ってても不思議じゃないけどさ。でもその声音に滲んだ微かに親しげな響きに一瞬違和感を感じる。というより既にさん付けじゃないのが気になった。すると彼もそれに気付いたのか慌てた顔で眉を下げた。 「あっ悪ぃ!名字…さん。呼び捨てにしちまってよ」 「……別にいいよ、呼び捨てでも」 「そっか!それなら、な!」 そういう人なんだろうと私も気にしないことにする。目の前でニコニコとする彼、B組の竹谷君は学年でも割と目立つ人物だ。勉強は今一、いや、今三くらいかもしれない。けれど彼はスポーツが得意で体育祭や球技大会の立役者だった。当然他クラスの女子からも人気があって憧れている子は多いと聞く。どんな男子でもスポーツの場で活躍する姿は通常の数倍格好良く見えるものだし、なんて私は思っていた。 「A組は頭いいもんな」 「…そうでもないよ」 私に向かって朗らかな笑みを見せながら竹谷君が言った。隣のクラスの沢山いるモブ生徒の内の一人、それが私。可愛くて性格も明るくて目立つ女の子は沢山いるのに。悪いけど竹谷君はその他大勢の女子の一人に興味を持つようなタイプには見えない。怪訝そうにしたのを見て取ったのか竹谷君は表情を崩した。 「…いやな、名字のこと」 竹谷君が話し始めると、巨大なフラッシュでも焚かれたかのように辺り一面が白く照らされる。私は慌てて両耳を塞いだ。直後、お腹まで響く轟音が地響きと共に全身に伝わってくる。もちろん耳の中までも。 眉をひそめて音が静まるのを待っていると、そんな私を目にした竹谷君が笑いながら何か喋っていた。でも激しい雨音と雷鳴と耳を塞いでるのとが相まって、まるで彼が口パクしているようにしか見えない。仕方なく私は手のひらを耳から離した。 「今の落ちたなー、近かったみてえだし」 相変わらず雨音がうるさいけど今度は辛うじて聞こえた。竹谷君が私に一歩近付きながら少しだけ背を屈めて顔を寄せた。竹谷君は背が高いから私と話し難いんだろう。どこを見てんだか、俯いた竹谷君の視線がほんの一瞬上下に泳いだ。 「名字、雷嫌いか?」 「見りゃわかるでしょっ!」なんて、余裕がない私はつい冷たく言い切ってしまったけど。 ───つくづくさ、私って可愛くないよね。 「…だよな、見りゃわかるよなあ」と竹谷君はトレードマークの太い眉毛を押し下げた。少しだけ悪いことした気分になったから、こう付け加えた。 「見てる分には綺麗でいいんだけど音がヤでさ」 「ふうん…そうか」と竹谷君は呟いた。私は雨音に負けないよう声を張り上げた。 「でさ、さっき言いかけてたのって、何?」 「さっきって?」 「名字は…っていいかけてたじゃん」 「あー、あれな。A組に編入してきたヤツいるだろ。尾浜っての。そいつが…」 また稲妻が横に走った。すかさず私が両手で耳を塞いだから、見ていた竹谷君は苦笑いを浮かべた。雷の音が治まるのを待って彼は続けた。 「尾浜がさ、隣の席の子がスゲエ親切にしてくれたって言っててよ。それが名字って…」 「そっか、でも普通にしてただけだよ」 まあ人として、などと応えつつも何だか話が噛み合わない気がしていた。どうしてうちの組に編入してきてそれほど間がない男子と隣のクラスの竹谷君が親しげに話してるわけ? 確かに言われてみれば尾浜君は謎だった。勉強は出来るけどクラスでぼっち気味な美形の久々知君といきなり仲良くなったかと思えば、竹谷君を含む学年でも目立つB組の三人とも瞬く間に友達になってたから。すると竹谷君はバリバリと勢いよく頭を掻いた。痛んだ髪が更に酷いことになっている。 「まあ、知らなきゃ不思議に思うよな。俺達、久々知も含めて中二の夏まで一緒だったんだ」 竹谷君の白い開襟シャツが雨のせいでぴたりと肌に貼りついていた。 「途中から親が転勤して尾浜だけ別の学校になってよ」 意外な接点に唖然とする私を後目に、竹谷君はエナメルバッグをガサゴソ漁りながら探し物を始めた。そしてお目当ての薄汚れたタオルを見付け、ずるりと引っ張り出して顔を拭こうとしたものの。 「臭ぇっ……!」 あまりに予想通りだった竹谷君の行動に、私は堪らず失笑を漏らしてしまう。大方カバンに入れっぱなしだったのだろう。そういえば予備がまだ一枚あったことを思い出した私は、軽く頬を赤らめきまり悪そうにする竹谷君にタオルを差し出した。 「これ、今日使わなかったし…」 「おっ、名字。いいのか?悪いな」 目を見開いて幾分嬉しそうに、でも気軽に受け取った竹谷君は、一切の遠慮をすることなく濡れた身体を拭いている。そのタオルが可愛い色柄で、それを日焼けしたガタイのいい竹谷君が使っているという取り合わせが、傍目には妙に可笑しくて仕方がない。 「運動部なら毎日タオル取り替えるなんて基本じゃん?!」 「や…俺、帰宅部なんだ」 「マジっ?!」私が目を丸くすると、 「おう」竹谷君が少し照れながらそう答えた。 「強いて言うなら俺、生物部だな」 頭の中をクエスチョンマークが飛び交う。 ───え、他校との練習試合出てなかったっけ? 竹谷君が出る試合を観戦したい友人に無理矢理連れていかれた際の記憶。思い返せばバスケ部でも見かけたし野球部でも見かけた。サッカー部でもハンドボール部でも、節操がないくらい色んな部活で。 「助っ人で呼ばれんだけどな。助っ人で勝ってもあんまし意味ねえよな」 「ウソー!竹谷君、運動部じゃなかったんだ」 「うん、うちペット多いからさ」 部活よりそいつ等の世話してる方が楽しいしよ、と溌剌とした笑みを私に向けた。その笑顔に今まで遠くから眺めるだけでそれ以上意識したことがなかったのに、何故だか次第に私の心臓が大きな音をたて始める。 ───まさか。 そんなことは露知らずタオルを被りながらワシワシと頭を拭いている竹谷君からは、むわりと彼独特の匂いがした。 屋根に当たる雨音も段々と弱くなり辺りが静かになり始める。間断なく閃光と轟音をもたらしていた雷雲も時折遠くに光って見えるだけとなった。だが竹谷君が帰宅部だったことがわかるまで一体何度私は耳を塞いだことだろう。その度に竹谷君が幾度苦笑したことか。 バス停から手の平だけ出して雨粒を確かめた竹谷君がこちらに振り向いた。 「雨、止んだんじゃね?そろそろ行くか?」 ───えっ、一緒に帰るの?! 私はそう思ったけど竹谷君は何の疑問も感じていないようだった。 「尾浜、悔しがるだろうな…」 ───いま何て?! 聞き返すのもどうかという気がして、ただただ竹谷君を見つめ返す。しまったという面持ちで竹谷君は視線を宙に泳がせた。 「あ、名字のタオル…洗って返すからな」 「別にいいよ」 そんな柄の持って帰ったらお母さんに変に思われるじゃん。どうせ竹谷君は自分じゃ洗わないんだろうし。 「だって竹谷君のお母さんが…」 「んなこと気にすんな」 いうが早いか竹谷君は自分の鞄に私のタオルをサッサと仕舞い込んでしまった。そしてやって来た時と同様、無造作にショルダーベルト掴み上げると肩に引っ掛けた。 「んじゃ、名字。帰ろうぜ!」 「えっ?…あ…うん」 まだ納得のいかない私に竹谷君は飛びきりの笑顔を向けてきた。まだ形にさえなっていない複雑な予感なのに、それでも不思議な高揚が私の胸を支配する。竹谷君はまだ所々に小さくなった黒雲が浮かぶ夕空を見上げた。 「やっと夏が来るな」 竹谷君は歩きながら傍らにいる私を覗き込んだ。その台詞から連想した竹谷君の姿に私は思わず頬を緩める。 ───日焼けした竹谷君、入道雲、向日葵、麦わら帽子、虫取網。 この印象は彼が小学生の頃から変わっていないだろう。恐らくこれから先もずっと。深々と頷きながら横目で彼を見上げた。 「わかる!夏が好きそうだよね。色んな意味でさ」 「それ、どういう意味だよ」 竹谷君は少々不服そうに目を細めた。けれど濡れて透けた私の白いブラウスの下へ、幾度となく竹谷君の視線が注がれていたのを私は見逃さない。けれど今回は不問にしよう、機嫌よく喋り続ける竹谷君の横を歩きながら私はそう考えていた。 雨上がりの風は少しひんやりとして湿った私の肌から熱を奪う。ふるりと身体が震えた。だがそれは、ただ冷えたからだけじゃない。もっと別の何かであって。 雷雲に洗われた後の空気は驚くほど清廉としていて、清々しい緊張感が漂っていた。まだ乾いていない竹谷君と私の髪を揺らす風が、梅雨の終わりと次の季節の到来を告げていた。 |