ざあ、と波の音が聞こえる。
ああ、海だ。
でもなんで俺は今こんな所にいるんだろう。
今日は休日じゃなかったのか。
課題もないから一日中寝ている予定だったのに、これは幻聴だろうか。
いや、いっそのこと幻聴であってくれたらよかった。
眠い。とにかく眠い。
あいつが、名前が、俺を叩き起さなきゃ今頃まだ夢の中にいられたはずなのに。

「さぶろー、そこで何してんの?早くこっち来なよ!」

遠くから波の音と共に浜辺の上ではしゃいでいる名前の声が聞こえて、はっとして顔をあげる。
そしてこれは現実なのだと改めて感じさせられて、俺はため息をついた。



海に行きたい。
名前がこう言ったのが始まりだった。

「…は?」
「私、海に行きたい」

朝の5時にいきなりかかってきた電話。
あまりに突然のことで何を言われたのか俺は一瞬わからなかった。
名前の言葉を噛み締めて、欠伸は噛み殺した。それから、漸く出た言葉。

「…行けば?」
「連れて行って!私、車無いし」
「…電車で行けよ。ていうか君…今何月だと思っているんだ?」
「6月」
「海開きはまだだ。いくら暑いからって…」
「でも、どうしても行きたいの。海は女のロマンだと思うんだよね」
「もうすぐだって言っても海はまだ季節はずれだ。そんな所に行くことがロマンだと思うなんて、君だけだよ」
「やっぱり?私ってすごい?」

嫌みのつもりで言ったのに名前には全く効いていない。
むしろ嬉しそうに笑う声が電話越しに聞こえた。
もうこの際こんな遠まわしに海に行きたくないだなんて言わないで直接言った方が早いかもしれない。
名前には悪いが俺は寝たいんだ。
朝5時に起こされる気持ちになってみろ!
とにかくもう一度眠りにつきたい。

「…なあ」

名前。
そう言いかけた瞬間、インターホンが鳴った。
直感的に、嫌な予感。
自分の気のせいだと信じて、恐る恐る玄関を開けると、そこには。

「お弁当も作ったし、海に行こう!」

案の定名前がいた。
携帯電話を片手に、清々しい笑顔で。

こんな感じで、何だかんだとごちゃごちゃしているうちに丸め込まれて、結局俺は名前を愛車に乗せて初夏の海へとやってきたのだった。
俺もなんというか、名前にはつくづく甘い。
雷蔵や八左ェ門、兵助にそれから勘右衛門。このことを4人に話したらまた笑われるのだろうなと思った。



「満足かよ」

波は変わらずざあざあ鳴いていた。
この波はきっと明日も、いやずっと変わらず鳴くのだろう。

「満足」

満面の笑みで、名前が俺を見る。
名前は本当に幸せそうに笑う。
俺にはできない表情で、笑う。
この笑顔を見ただけで、嫌々ながらも海に来たかいがあったなんて思ってしまった自分が情けなかった。

「俺に感謝してくれよ」

さらさらとした砂の上に座ると、名前もこっちにやってきて隣に座った。
二人で海を眺めた。
俺たちの他に、人はいなかった。

「感謝も何も、三郎なら連れて行ってくれるってわかってた」

名前はニヤニヤと砂を弄りながら話し出す。

「…なんで?」
「だって三郎は私のこと大好きでしょう?」

…海に沈めてやろうか、この女。

「…私も、三郎のこと大好きだから。だから、同じくらい三郎も私のこと好きなんじゃないかなって、思ったんだけ…ど」

名前を一回海に沈めようとしたこと、撤回。
きた。今のは完全にやられた。
そうだよ。俺は君が好きだよ。
だから、海に連れてきたんだ。
君以外の女だったら、多分俺はここにはいない。

「名前」

小さく名前を呼ぶと、名前にしては珍しく、静かに目を閉じた。
俺も、目を閉じる。
見えないけれど、きっとお互いの唇が近いはずだ。

「…」

名前とのキス、久しぶりだ。
そう思った時だった。
グギュルルル。
不意になんだかこの雰囲気に似つかわしくない音が聞こえたので慌てて目を開く。
そこにはぱっちりと目を見開いた名前がいて、言った。

「おなかすいたから、お弁当食べよ!」










海だけが見ていた










「君さ…もうちょっと空気読むとかできないわけ」
「…三郎、ウィンナーあげるよ!はい、あーん」
「…あーん」