Absence | ナノ
星天に誓う
星の見えない空ほどつまらないものはない。初めて現世に来たときに名前はそう感じた。それは今も変わらず、来る度に酷くなっている景観には辟易するばかりである。
目下に広がる見慣れない建造物を眺めながら、髪を高めに結い直す。それくらいの余裕があるほどには、名前が割り当てられた配置場所に虚は現れない。遠くの方で同級生が戦っているような霊圧の動きは感じられるが、彼女はまだ刀を抜いていなかった。

「現世に来たのは4回目くらい?」

「はい!過去にダミー虚で3回実習をしました。」

「そう。本物は動きが単純じゃないから気を付けてね。」

「名字さんは本物と対峙したことがあるんですか?」

「5回生のときに2回、あったかな。……お、噂をすればなんとやら、」

「虚ですか!?」

「北に200m。大きさは…、たいしたこと無い。私が行くよ。みんなは周りを確認して。」

「はい!」

瞬歩で数十歩駆けると、趣味の悪い仮面と背中に鋭い突起をもつ化け物が見えた。霊圧は小さい。雑魚というヤツだろう。探知能力も低いのか、真上にいる名前に気づく様子もない。
後ろを確認すると、1回生はきちんと着いてきていた。彼らの役目は名前たち6回生の周辺管理と討伐補佐、という名の見学である。恐らく実際に刀を抜いている一回生は少ない。
初めて見る本物の虚はやはり恐ろしいらしく、生唾を飲み込んでいるまだ幼い彼らを見て、名前は昔の自分を振り返った。もう随分昔のことのように思う。慣れたと言っていいのか、危機感がないと自らを戒めるべきなのか。

「怖がらないで。霊圧が揺れると気付かれやすくなる。」

「っ!は、はい。」

「……君臨者よ 血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ 真理と節制 罪知らぬ夢の壁に僅かに爪を立てよ!破道の三十三、蒼火墜!!」

名前の手から放たれた透き通るような蒼が真っ直ぐと目標に向かう。霊子の流れで風を切る音が鳴る。爆音と土煙の後、残ったものは何も無かった。霊圧は消えている。討伐成功だ。

「す、すごい!!鬼道がお得意なんですね!」

「瞬歩が苦手だから接近戦は嫌いなの。…あれくらいなら、6回生は誰でも倒せる。ああ、斬術が見たかったのならごめんね。」

「いえ、そんな…、」

「名字さん!!」

「っ、何?また出た?」

「俺らの範囲外っすけどっ、あ、…あれ、あ、れ、」

冷静な男の子の筈だったのが見る影もなく、冷や汗をかきながら顔を青白くしている。自分の班員については先程の暇な時間に個々のタイプを把握していたつもりで、名前は彼がここまで取り乱すような人物ではないと感じていた。実際、今さっき倒した雑魚を彼女が見つけた時も彼はいつも通りだったし、彼女が討伐成功したときも気を弛めずに周辺把握を怠らなかった。彼のその点を、彼女は見習うべきだろう。
優れた霊圧探知能力を持っていながら、あれほどの巨大な虚に気づかなかったのは、彼女の過失だ。
彼らの数百倍あろうかというほどの巨体から発せられる霊圧が、離れていても全身をビリビリと震わせる。1回生は既に恐怖で立っているのがやっとという状態らしく、ただ口を無意味に開閉しながらか細い音を漏らしている。
しかし、名前には彼らほどの動揺は無かった。即座に全神経を霊圧探知に集中させる。様々な霊圧の揺れと、それをさらに助長するような巨大な霊圧。そして、それに対峙する2つの霊圧。
1つは名前の見知ったものだった。本当は今一緒の班にいるはずだった、吉峯のもの。もう1つは、最近知ったばかりの少しチクチクしたもの。

「……猿柿さん、」

何故、急に巨大虚が現れたのかは分からない。ただ、異常事態だということは分かった。
巨大虚がその腕を徐に上げ、降り下ろした。崩れる建物、その下に誰かがいる。1回生かもしれない。当たり前だ。これだけ離れた名前の班員が使い物にならないのだから、彼らには瞬歩をする余裕すら無かったのだろう。
2つ、驚くほど速く東から現場に向かう霊圧があった。そういえば彼らは猿柿さんと仲良さげだった、ということをふと思い出す。
真子と拳西はリサと白に自分達の持ち場を任せたのだろう。名前にはそれをすることができない。あんな危険な場所に行きたいとも思わないが、1回生を置いていけないという理由で戦わないのには少し罪悪感があった。『平凡な名字名前』が巨大虚に立ち向かわなくとも、恐らく誰も非難しないだろう。ただ、彼女は自分の本来の実力を理解しているが故に、自分を責めてしまう。

(……無理、だ。平子くんたちじゃ、巨大虚は倒せない。)

彼ら霊術院生程度の斬術、始解すらできない戦いで勝てるわけがない。敵の仮面に手も届かない。ましてや、それを叩き切るなど、無謀もいいところだ。歯が立つとしたら、鬼道、それも威力の高い鬼道くらいだろう。
ただ彼らの動向を窺うことしかできない名前に近付く霊圧が1つ。それを感じた瞬間に、名前は全てを理解し、覚悟を決めた。

「名前ー!!」

「…白ちゃんのほうは大丈夫なの?」

「そのへんの雑魚くらい白1人で十分やわ!……真子からの伝言や。『俺らじゃ無理。援護したるで、鬼道うちに来んかい!』…やて。」

「………わかった。ここは、この子たちは、任せていい?」

「おぉ、なんやアッサリしとんな…。…はよ行き。あたしにはこれくらいしかできへん。」

「ありがとう。」

「本気出しぃや!!」

「あはは、流石に命掛かってるからね。」

乗り気ではない。しかし、名前は既に自身の霊圧制御を止めていた。そうすることで、伝言を頼んでまで付き合いの浅い名前を呼び出すと決めた真子が少しでも安心するかもしれないと考えたからだ。彼なら名前の霊圧変化に気付いているだろう。
リサの顔は青褪めていた。声も、言葉も普段通りのように聞こえたが、強がっていたのかもしれない。大事な友人たちの命が危ういのだ。いくら精神的に強い彼女と謂えども、何ら不思議ではない。
だから、名前は嫌だったのだ。
たった1週間ほどで、何の情が移ったというのだろうか。名前には分からない。ただ、震える指先は自分の死に対するものではなく、他人の、真子たちの死に対するものだということだけは分かった。
どうしようもない、恐怖。先日までの彼女ならば、抱えずに済んでいただろう感情。
自分の瞬歩が遅いことは知っていたが、それに憤りを感じたことはなかった。鬼道さえ得意なら満足できていたからだ。建造物を3つ、4つと飛び越えながら、名前は盛大に舌打ちした。学内での彼女をよく知っている者ならば驚愕するであろう。しかし、今この瞬間を誰が見ていようとも、彼女は自分を取り繕う気はなかった。

(私の力じゃ蒼火墜ではかすり傷程度しか与えられないかもしれない。安定するやつで、一番強いものを完全詠唱するしか…、)

時間稼ぎは真子たちが受け持ってくれるだろうし、まず巨大虚は俊敏ではないからその点に関して問題はない。しかし、一か八かの賭けになるだろう。高難度の鬼道はそう何度も使えるものではない。
目の前まで迫った巨体に、息を呑んだ。斜め後ろから近付いた名前には気付かないようで、単調に前方へ腕を振り下ろしている。同時に退避した3人の姿が視界に入り、名前の張り詰めていた神経は少し緩和した。拳西の肩に担がれた吉峯を見てゾッとする。

「六車くん!!吉峯さんは!?」

「名字か!!大丈夫だ、気を失っただけで重傷じゃない!!」

「遅いわ!お前ホンマ瞬歩ヘタクソやな!!」

「うるっさいな!これでも急いだんだよ!!」

「おいハゲェ!!強力な助っ人て大人とちゃうんかい!!被害者増えるだけやないかアホんなったんかハゲェ!!」

「やっかましいわ黙っとれ!おい名字、俺が引き付けるからさっさとせぇ!!」

「1回しかできないからね!?」

「十分や!!お前ならいける!!」

瓦礫の中を駆け回りながら叫ぶ真子は右肩から血を流していた。ひよ里も頭部を負傷しており、色素の薄い髪が赤黒くなって固化している。
ちょこちょこと巨大虚の目の前を走る金色と一定の周期で振り下ろされる太い腕。まるで土竜叩きのようだと呑気なことを思った。
逃げ回る真子たちに苛ついたのか、巨大虚は大きく咆哮した。何とも言い難い耳障りな声に耳を塞ぎたくなるが、この好機は逃せない。
息を整えてゆっくりと手を前に翳す。霊子の動きまで感じられるほど、名前は集中できていた。

「…君臨者よ 散在する獣の骨 尖塔・紅晶・鋼鉄の車輪 動けば風 止まれば空 槍打つ音色が虚城に満ちる、」

今までで最も具合が良いような気がする。名前の目の前でパリパリの放電する霊子の結集体は徐々に大きくなっていく。
魂を込める、そんなイメージで。

「破道の六十三、雷吼砲!!」

目の前が真っ白になる、というのを物理的に体験したのは、名前にとってこれが初めてのことだった。自分の鬼道の爆音で鼓膜が破れるかと思ったのも初めてだったし、全身から力という力が全てなくなったような感覚も初めてだった。
視界は白くチカチカとしていて、耳鳴りも酷い。それら全てから逃れるように、名前の意識は暗闇に沈んだ。
誰かが名前を呼んだ気がしたけれど、誰の声なのかは分からなかった。

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