Absence | ナノ
月は未来を知っている
お疲れ様です、と言って執務室を後にする。おー、という間延びした声に笑いそうになった。
名前の上司である志波海燕は、後輩として面倒を見ていた筈がいつの間にやら敬語を使わねばならない存在になっていた。そういった変化に名前はすっかり慣れてしまっていたが彼はやはり違和感が残るらしく、今でも名前に対しては敬語を混ぜて話す。その不器用さが面白く、可愛らしいのだ。外見年齢がなかなか変わらない死神も、歳を重ねればそれだけ思考も老ける。名前は自分より若い隊士を見ると、おばさんになってしまったなぁと思うのだった。
勤務時間はとっくに終わっている。名前は出し忘れた書類を届けに来ただけだ。海燕はまだまだ残業があるらしく、執務室の灯りは消えない。あれだから高位職は嫌なのだ、と思いながら、名前は帰路につかず十二番隊の方へ足を向けた。浦原がちゃんとひよ里と仲直りできたのか気になったのだ。というのは理由の1つに過ぎないけれど。
並びのせいか、十三番隊からは十二番隊が一番近い。リサや白の所へ遊びに行くより、ひよ里の所が数段近くて楽なのだ。あまり自隊に友人がいないため、名前が暇をもて余して彼女の元を訪れることは頻繁にあった。
暗い夜道で空を見上げると、昼の曇天からは想像もつかないほど美しい星空が広がっている。雲は流れていったらしい。ひとつ、輝く星を見つめて、名前は深く息を吸い込んだ。………来る。

「仮にも女が、こないな時間に1人で歩くんは関心せぇへんな。」

「仮にもって何。」

後ろから温もりに包まれても眉1つに動かさない名前に、真子の体温が流れ込んだ。腹に回された腕はきつく彼女を締め付け、離すまいという意思を如実に表している。首筋にかかる吐息が熱くて、名前の頬は徐々に紅潮していく。それが自分でも分かって、名前は少し苛立った。

「どこ行くん。」

「ひよ里のとこ。」

「……喜助と?」

「は?……ああ、昼のやつ、見てたの?」

更に締め付けが強くなった腕を軽く叩いて、苦しいと訴える。しかし真子は力を弛めない。大きな子どものようだ、と名前は思った。

「面識あらへんだやろ。」

「リサの所に遊びに行ったら、偶然会ったんだよ。そしたらひよ里と喧嘩したーって言ってるから、ちょっと相談に乗っただけ。」

「…何で名前やねん。」

「隊長の真子や拳西じゃ、下の人の考えが分からないでしょ。」

「別に一緒に昼食べんでも立ち話でええやん。」

「そういう文句は浦原隊長に言ってくれませんかね。」

名前が誘ったわけではない。それくらい真子も分かっているだろうにこうして責めるように話すのは、相手が自分の友人だというせいで気持ちの捌け口がないからか。
それにしても、彼はこの数十年間で随分と直接的に嫉妬を表現するようになった。そのわりに、名前に想いを告げることはないけれど。

「………明日、昼食べに行こ。」

「いいよ。」

「明後日も、その次も。」

「…そんなことしてたら真子が破産しちゃうと思う。いつも無理やり私の分まで払うじゃん。」

「せぇへんわ。七席と隊長の給金なんて比べもんにならんからな。」

「あーそうですかはいはい。…とにかく、明日はいいけど毎日は行かないよ。」

「………何でや。」

「それ、聞くの?」

聞かなくても分かってるくせに、と笑うと、真子は名前を締め付けていた腕を解いた。離れていく背中の熱に安堵すると同時に、少しだけ胸が苦しくなる。
本当は、毎日一緒に昼を食べに行くだけでも足りない。朝起きるときも夜寝るときも、就業時間でさえ同じ時間を共有したい。名前はそう思っているが、世間的にはそうはいかない。名前と真子は『ただの友達』だから。
名前は恋愛に関して自由な存在の筈だが、誰にも見えない、自身にすら見えない透明な糸で束縛されている。彼が何色でもいいから糸を染めてくれれば名前は自分から絡まりに行くことができるのに、糸は透明なまま、名前の肌に少しずつ食い込み傷を作っていく。
どうして付き合わないのか、と聞かれる度に、真子が何も言ってくれないということを実感して名前は暗然とした。付き合いたくないわけではないのだ。しかし、彼は自分とは違うのかもしれない。そんな関係にはなりたくないのかもしれない。そう考え始めると、名前は何も言えなくなる。
恐らく、名前が真子に好きだよと言えば、彼も同じ様に返すのだろう。彼は名前の要求なら大抵のことに応えてくれる。だからこそ、名前は自分から告げるのは避けたかった。いつもの延長のように関係を変えてほしいわけではない。

「真子は勝手だよね。」

「………。」

「私、昔と違って今はそれなりに友達もいるんだよ。真子だけじゃない。」

「分かっとる。」

真子は無表情だった。感情を圧し殺し、無理に取り繕っている無表情。そんな彼の顔を見つめて、名前は体の芯から冷たくなっていく心地がした。
また、何も言わないつもりだ。これだけ振り回すくせに、肝心なことは何も言わない。

「……明日、」

池の多いこの辺りは蛙の鳴き声が煩い。沈黙の間にこれでもかと主張してくるから、此方も焦って深く考えずに言葉を発してしまう。
しかし、意味を為さない鳴き声とは違い、言葉というのは何でもいいわけではない。言えばきっと後悔するのに、名前は止められなかった。

「明日、やっぱり、お昼はリサと食べに行くから。」

「………名前、」

「あとさ、こうやって夜に会うの、あんまり良くないと思う。」

「………。」

「真子がどうしても気になるなら、今日はもうひよ里の所へも行かないよ。…もう、帰るね。」

一方的におやすみ、と言って、真子の横を通り抜けた。名前が歩いたことで起きた空気の流れが、真子の長い髪を揺らす。いつも目で追ってしまうそれから、今日は目を逸らした。
今までの名前なら、真子がいつも通りの彼に戻るまで黙って側にいた。黙って、2人で星を見上げていた。しかし、今日は周りが追い立てるように喧しい。いや、今日だけじゃない。最近、2人の周りはいつもそうだ。噂話や様子を窺うような視線にも、名前はそろそろ辟易していた。自分たちの有ること無いこと何でもかんでも名前も知らない人々に言われ、それを否定するのは神経をすり減らされる。そうして苛々して真子に八つ当たりして喧嘩して、また違う噂を立てられる。悪循環から抜け出せなくなっていた。
何故こうも上手くいかないのだろう、と思い、名前はため息を溢した。
ぐい、と腕を引かれた。名前は前に出そうとしていた足を慌ててその場に戻す。真子が名前の腕を引くときはいつも急で、転びそうになるのだ。

「なにす、んっ…、」

腰を引き寄せられて、後頭部を固定された。髪の中に差し込まれた掌から直に頭へ熱が伝わり、背筋がぞくりとする。ぐ、と押し付けられた唇の熱さに目が回るような気がした。意味が、分からなかった。
パン、という乾いた音に驚いたのか、煩かった蛙の大合唱が収まる。名前は自分の右手がヒリヒリしている理由を理解するまで少し時間を要した。反射で平手打ちをしたのだと気付いた瞬間、目の前の男に対して激しい怒りが湧きおこった。

「………最っ低…!!」

思ったよりも泣きそうな声になって、名前は一層惨めな気分になった。一言だけ悪態をついて、嫌いな瞬歩まで使って逃げた。
何でこんなことしたの、と聞けば良かったのかもしれない。そうしたら、聞きたかった言葉が聞けたのかもしれない。それでも名前は、自分に何も言わないまま躊躇いなく唇を重ねた真子を許せなかった。
名前が彼の髪を触らないように、真子は名前の唇には指先少しさえ触れないようにしていた筈だった。鼻を摘まんだり頬を撫でることはあれど、唇には掠りさえもしないように細心の注意を払っていた。それを名前は彼の手や表情から感じ取っていたからこそ、自分も欲求に負けないよう、無意識に手を伸ばさないよう、気を付けていた。
それなのに。

「……どうして、何も言ってくれないの…。」

嫌だったわけじゃない。そういう行為に人並みには憧れがあった。
でも、嫌だった。彼が何も言わないまま先へ進もうとしているように思えて、どうしようもなく嫌だった。
名前は自室の襖の前で膝をつき、満天の星と嘲笑うように細い三日月を背に、一粒だけ涙を流した。誰も拭いてはくれないそれは、寂しげな音をたてて名前の手の甲に落ちた。

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