Absence | ナノ
あの日
全住民を合わせても恐らく30人程度の小さい集落は、幼い彼女の全てだった。
楓くらいの手の平で、弟の紅葉のような手を引いて歩く姿は見ていて癒されるものだ。彼女たちは村の中の数少ない子どもで、たっぷりと愛情を受けて育った。

「優太!さつまいも掘り行くよー!!」

「待って名前ちゃん。今お婆ちゃんに編み物習ってるから。」

「編み物ぉ〜?女の子みたい。」

「名前ちゃんがやらないんだもん。僕がやらないとね。」

「ふーん。じゃあいいや!私は先に行ってるよー!!」

「後で行くからねー!」

ドタドタと走り去る少女を見て、縁側で淹れたての茶を啜っていた老婦人は「元気ねぇ、」と呟いた。
村から山とは反対側に少し走ったところにある広い畑は、村民の宝だ。基本的には町へ売りに出るのだが、食べなければ生を繋げられない特殊だった少女は好きなだけ食べたいものを取っていって良いことになっていた。
その日も1人で慣れたように無心で芋を掘り返していた。手で土を払い、背中の籠へ入れる。祖父が落ち葉の中で美味しく焼き上げてくれるのを期待して、少女はどんどん掘っていく。そんな少女の手を止めたのは、聞いたことも無いような甲高い誰かの悲鳴だった。

「虚だー!!!」

「瀞霊廷に連絡しろぉ!!」

聞いたことがあるような、無いような難しい単語が飛び交う中、耳障りで気色の悪い雄叫びが辺りに響き渡った。カタカタと震え始めた足を叱咤し、少女は背中の籠を投げ出して畑を飛び出す。畑にいたのは少女1人だった。
弟と祖母はまだ編み物をしているはずで、祖父は村の井戸の修理を手伝っているはずで。そしてその村の井戸は、今ちょうど白くて趣味の悪い仮面を被った大きな生き物が立っている真下にあるはずで。その生き物が容易く崩した家屋には、少女の数少ない友人がいたはずで。
何が起きているのか分からなかった。叫び声と唸り声しか聞こえない中、ただただ少女は走り続ける。恐怖はあったが、立ち向かわなければならないと分かった。そうしなければ何もかも失うのだと。

「うわああああああああ!!!」

耳慣れた声だ。やっと近くまで来たからか、見たことのない生き物の全貌が見えた。口から飛び出た舌とも触手ともつかない紫が、誰かの足首を掴んでぶら下げている。態々聞かずとも分かった。名前とは違う漆黒の短髪、ふっくらとした頬に、幼いわりにしっかりとした瞳。優太だ。

「……お姉、ちゃん………?」

「優太っ…!!」

「逃げて!逃げ、あ、ああ、」

少女の棒切れのような足で、この怪物から逃げられる筈がない。ましてや、弟を救うことなど、できる筈がない。立ち尽くしたまま、動けなかった。
可愛らしかった弟の顔は恐怖に染まり、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。握られた胴体がミシミシと悲鳴を上げているのが少女の耳にもしっかりと届いていた。絶叫と、血飛沫。既に原型を留めていないほど荒らされた村に、雨のように飛び散った鮮血。ほんの数分の出来事が、彼女の全てを奪っていった。
新たな獲物を見つけたとでも言うように、気味の悪い紫が少女の方へ手を伸ばす。固まった足で立つことすらできない少女の耳に、ひどく下卑た笑い声が大きく響く。血の臭いで鼻は麻痺し、耳鳴りが絶叫のように止まず、視界は赤と白で埋め尽くされた。少女は嘔吐した。恐らく本能的に、そうすることで、現実を拒否したのだ。
伸ばされていた醜悪な手が目の前から消えたのは、少女が生を諦めかけたときだった。

「生存者がいる!!救護班!!」

「はい!」

「……悪い、遅くなった。もう大丈夫だ。」

最初、少女は突然目の前に現れた男を怪物の仲間かと思った。雪のように白い髪と、同じ色の羽織はそのときの少女にとって恐怖を抱くのに十分な要素だった。ただ、向けられた穏やかな、それでいて厳しい笑顔に大好きだった祖父を思い出し、少女の頬には一筋だけ涙が流れた。
一瞬で目の前から消えた男の代わりに、優しげな女性が現れる。鴉のような黒は白よりも怖くない。

「…怪我は無さそうね。よかった。」

「………何、が?」

「え?」

「何が、よかったの?」

その問いは無意識だったのだろう。乾いた唇は震え、虚ろな目は何も捉えていなかった。
また、絶叫が聞こえた。ただし今度は人間のものではなかった。この世のものとは思えない、腹を抉られるような不快な音。再び少女の目の前に現れた男は気にも留めていないようだが、少女は頭が割れそうな鈍痛に顔を歪めた。

「隊長!怪我はないようです。」

「ああ、ありがとう。…他は、間に合わなかったんだな。」

「高齢者が多かったようで…、殆どが即死でした。治療すら、できず……。」

「…そんなに気に病むのはよくない。偶々俺たちが近くまで来ていなかったら、恐らくこの子も助かってなかった。」

「っ、はい…。」

ひょい、と少女を抱き上げた男は随分と大きかった。祖父母にしか抱かれたことのない少女にとってその高さは恐怖を感じるのに十分だった。
カタカタと震え出した少女に苦笑し、抱き上げる代わりに自らが膝を付いた男は真面目な顔で少女を見つめた。

「名前を、教えてくれるかい?」

「………名前…。」

「名前。辛いだろうが、今日のことは決して忘れてはいけない。思い出さなくてもいいが、忘れてはいけない。」

「……?」

「死神になるんだ。」

「死、神………。」

「ああ。学校に行って、戦い方を、…守り方を、学びなさい。君は霊力がある。それも、なかなか見込みがあるくらいだ。このままでは、また奴等に狙われてしまう。」

このときの少女は、自分のせいで村が襲われたのだという解釈に至るほどの思考は持っていなかった。しかし、いずれ理解してしまう日はくる。その日、少女が感じるであろう自責の念は、胸を切り裂くほどの哀しみを生むだろうが、きっと少女が前に進むための糧になるだろうと男は信じた。
自分の部下が地獄蝶で報告をする様子を見ながら、男は少女の手を握り続ける。一言も発することなく虚ろに一点を見つめる少女を不審に思い、その視線の先に目を向けたところ、男の息が止まった。
少年の首が落ちていた。少女との関係性など分かりはしなかったが、これほど小さな村だ。喩え家族ではなく友人だったとしても、大差はない。
噛み千切られたのだろうか。胴体は見当たらなかった。生首、というものを男が見るのは初めてではなかったけれど、少女の心の痛ましさを思うと胸の奥から湧き上がってきた苦しみが男の瞳を濡らした。

「……どうして、泣いているの?」

「…どうして、か。そうだな。名前の言う通り、俺のこの涙は必要ないな。」

所詮は同情の涙だ。その滴で死者が還るわけでも、少女の心が癒えるわけでもない。暗にそれを年端もいかない童子に指摘されたように感じ、男は自分の溢れる涙を恥じた。
この場に座り込んでいても、どうにもならない。男は少女の手を握り締めたまま、立ち上がった。まだ少女は少年の亡骸を見つめている。その様子を見た、報告を終えたばかりの女も、辛そうに眉を顰めた。手を引けば歩く。しかし、少女は村が見えなくなるほど遠くまで歩いても、ずっと村の方だけを見ていた。

「……名前。疲れたんじゃないか?」

子どもが黙って歩ける距離を疾うに超えているはずだが、少女は一言も弱音を吐かなかった。小さく首を振るだけで、人形のように表情を変えない。
漸く瀞霊廷が見えてきた所で、少女は初めて自分から言葉を発した。

「あなた、誰?」

それはきっと少女が、自分やいなくなった家族と同じ人間として隣を歩く男を認識した瞬間だったのだろう。この少女が受けた衝撃は、自分の手を引く者が何なのか、そんなことにさえ意識が向かないほどのものだった。

「俺か?…俺は、浮竹。死神だよ。」

「うきたけ。」

「何だ?」

「どうして、私だけ生きてるの?」

その問いに対する答えを、男は持っていなかった。

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