夢にまで見た広い世界。
青い空と白い雲、緑の服に黒い髪。やがて空は茜色へと顔を変え、同じく雲も朱に染まる。
変わらないのは笑顔の少女。そして鎧とアンテナの並んで歩く三つの影。
─+─+─+─+─+─
「───……お!これなんか、いいんじゃね?」
「それ、本気で言ってるの?」
「ごめんね、リト。兄さんのセンスの悪さはもうどうしようもないんだ……」
「何言ってんだよ、かっこいいだろ?この服」
「「………はぁ。」」
可愛いらしいフォントで“March”と描かれた看板を掲げる小さなショップ。体が縮んでいつもの服がダボダボになってしまったため、三人はリトの服を買うべくやって来た。
エドが選んだ店、Marchは10代の女子を筆頭に幅広い人気を誇り、セントラルに本店がある超有名店のイーストシティ駅前支店。
店の選択は間違っていない。寧ろエドにしてはよくやったと褒めるべきだろう。間違っていたのはエドの美的感覚、つまりはセンスだった。
フワフワ、キラキラとした洋服に、デフォルメされたイヌやネコのポーチ。リボンやレースといった装飾品をふんだんにあしらった小物類。
店内に並ぶのはどれもこれも女の子向けの可愛いものばかり……のはずなのに…。
「エド…はっきり言ってそれ可愛くない」
キッパリとリトが言うのにも、即座に頷けるぐらいの服を選ぶエド。これはもうセンスだけの問題ではない気がする。
30分後、ニコニコした店員のお姉さんに連れて行かれたリトを、エドとアルは試着室の前で待っていた。
「初めから店員さんに頼めばよかったね」
「あぁ…」
女の子の服なんてアルは選んだことがないし、リト自身も買い物などした事がない(エドの美的感覚は最早論外)。結果、一番無難な道を二人は選んだ。
「ちくしょー、何でこれがダメなんだよ」
まだ自分の選んだ奇抜なデザインの服に未練を残す兄を、はいはい何でだろうねー、と慣れた感じでアルが適当にあしらっていると…
──シャッ
「お待たせしましたぁ!」
30分前と変わらない笑顔で店員が試着室のカーテンを開け、中にいる少女を二人の前に連れてきた。
「……おぉ!」
「……わぁあ!」
少し恥ずかしそうに、おずおずと二人を見上げるリト。透き通るような白い肌を包む薄いグリーンのワンピースが彼女の黒髪とよく似合っていた。
「……大丈夫かな?変じゃない?」
「すっげー似合ってるぜ!なあ、アル!?」
「うん、可愛いよ!」
「っ……ありがと」
リトは嬉しそうにヘニャリと微笑んだ、と思ったら即座に表情が固まる。
「ゼロが……いっぱい…?」
リトの目に止まったのはワンピースについていた値札。予想以上に0の多い値札にリトは油の切れた絡繰り人形のようにギギギッとぎこちなく顔を上げた。
「ねっ、ねぇエド?……1センズって何円ぐらい?」
「エン?あ、……あぁ、えーっと……」
確か前に現世に行ったとき、1センズはおおよそ1円だとリトが教えてくれた。
「センズはエンと同じぐらいだな」
「同じ……ってことは…」
リトはもう一度値札を確認し、理解した。
「(この服めちゃくちゃ高い……っ!)」
サーッと血の気の引いた顔をブンブンと横に振りながら店内であるにも関わらずリトは着ているワンピースを脱ごうと手をかけた。
「やっぱりいい!いらない!!」
「はぁ?いきなりどうし…」
「だってこんな高い服、もったいないよ!」
「なに言ってんだよ!それ、気に入ったんだろ?」
「でも……」
高いものは、高い。いくら世間を知らないリトでもお金の価値ぐらいは知っている。
「この服、お父さんの給料と同じ値段なんだもん……」
「ったく、子どもが金の心配してんじゃねーよ」
「エドだって子どもじゃん!」
「少なくともリトよりは大人だ!」
「身長だけね」
「お前なぁ!!」
小さくなっても頭脳は大人。いや、この場合はエドが子どもっぽいだけだろうか?どちらにしろ端から見れば2人とも子どもにしか見えない。
「ほらほら、兄さん落ち着いて。リトもお金のことは本当に心配しなくてもいいんだよ?」
アルはリトの着ている服から値札を切り取ると、エドに渡した。
「兄さんはああ見えてけっこうお金持ちだから」
アルから受け取った値札と重そうな財布を持って、レジへと向かうエド。大金を払うのにも慣れている様子だ。
「……無駄遣い。お金の正しい使い方を知らないんだから、やっぱり子どもだよ」
「ハハ……確かに」
ぷぅっと頬を膨らませながらリトは言うと、レジにいるエドのところへ走って行き、後ろからしがみついた。
「おわっ、なんだよ危ねぇだろリト」
「………………ありがと…」
「…っ」
エドのコートに顔を埋めながらそれだけ言うと、リトはまたアルのところへ走って戻っていく。その仕草や後ろ姿が不覚にも可愛いと思ってしまったのはここだけの話。
買い物を終えた三人は、まず街の大通りへと行くことにした。
「うっ……わぁぁああっ…!」
大通りには司令部の窓から見た時よりもずっと多くの人が街を行き交う。また人だけではなく、普通の人間が当たり前のようにペットとして飼っている犬や猫も、リトは図鑑でしか見たことがなかった。それが今は目の前、手の届くところにいる……リトの目は一段と輝きを強めた。
「か〜わ〜い〜ぃ〜!」
薄汚れたゴミ箱の上で寝ているブサイクでふてぶてしい野良猫をリトは至福の表情で見つめる。
「可愛いか?それ…」
「うん!すっごく!!」
「そ、そうか……」
リトさん、リトさん。目からキラキラした光線が出てますよ?
イマイチ可愛いさが解らないエドは、リトのテンションに顔を引きつらせた。
「フッ……兄さんはまだまだだね」
「何がだよ……」
真の猫好きであるアルには、リトを虜にしてしまったあのブサイクにゃんこの良さが理解できるらしい。とかなんとか言っているうちに…
「ニャアアゴォ」
──ダッ
ブサ猫はひと欠伸するとゴミ箱から飛び降り、市場の方へと駆け出した。
「あ!待って!!」
「追いかける気かよ!?」
エドが止めようにも、リトの足は速い速い。気づいた時にはもう数メートル向こうにいた。
「エド!アル!早く早く!!」
「あ、こら!そんな走ったら危ないだろ!」
「兄さんが言えた台詞じゃないね」
小さくなったリトに振り回されながらも、二人は街のいたる所を案内していった。
雑貨屋に本屋、街外れの協会。今のリトと同じぐらいの子ども達が集まる公園や、怪しさと胡散臭さ満点のブランド品が並ぶ露店。
リトにとっては全てが新鮮で興味深いものばかりの外の世界は、興奮するなと言う方が酷と言うもの。あれは何?と、新しいものを見つけてはエドとアルの手を引っ張ってリトは走る。
疲れを知らないアルは別として、生身のエドは底無しの子どもの体力に早くもギブアップ寸前だった。
「ぜーはー……ぜーはー…」
「大丈夫?兄さん?」
広場にある噴水前のベンチで、ぐったりとするエド。その横ではリトが買ってもらったソフトクリームを美味しそうに嘗めている。
「それにしてもリトは足が速いね。体も身軽だし」
野良猫さえも追いかける俊敏さにはエドとアルも驚いた。5歳の女の子にしては驚異的な身体能力と言えよう。
「いつもは森の中で遊んでるから…。ほら?いざって時に早く走れないと危ないでしょ?」
「いざって時…?」
「熊とか蜂の大群に襲われたとき。足を滑らせて崖から落ちたりしたら、這い上がるだけの体力もいるしね」
にっこりサラリと凄まじい日常を話すリトに二人は自分達の修行時代を思い出し、親近感を覚えた。
僅か9歳で軍人となれたリトの人並みはずれた運動神経の理由が、何となく分かった気がする。
「ごちそうさまでした」
リトが最後の一口をパクッと食べ終え、次はどこへ行こうかと三人が相談していると、広場の中央に子どもが群がっているのが見えた。どうやら風船売りが来ているようだ。色とりどりの風船に引き寄せられるようにリトも子ども達の輪の中へと入っていく。その目には最早、風船しか映っていない。
「お嬢ちゃんも一つどうだい?」
「……浮かんでる……?」
紐に繋がれフワフワと浮かぶ風船を不思議そうに見上げるリト。
「“風船”も知らねえのか?」
「む…っ、知ってるよ。前にお父さんが買ってきてくれたもん」
ただ父親の買ってきたそれはぺしゃんこで、一生懸命膨らませようとしても幼いリトには無理だった。あげく頭に血がのぼって、かなり気持ち悪い思いをしたのは今のリトにとって、ごく最近の出来事だ。
「それに、お父さんが膨らませてくれた風船は浮かばなかったよ?“ばんゆーいんりょく”が働くから仕方ないんだ、って言ってた」
父親が息を吹き込んで膨らませた風船は放り投げてもゆっくりと下降してきたのに対し、今リトの目の前に浮かぶ風船は紐が切れれば逃げてしまいそうだった。
「すごいね……」
風船を夢中になって見つめる姿は年相応で、とても愛らしい。
「どれがいいんだ?」
「え?」
「リトは何色がいいの?ってことだよ」
風船を前にした子どもが思うことなんて容易に分かる。エドは財布を取り出し、アルは遠慮しようとするリトの背中を押した。
「エド…アル……ありがとう!」
リトは二人にお礼を言うと、一つの風船を指差した。
赤、青、黄、緑、橙、桃、紫、白。いろんな色がある中でリトが選んだのは、青い空によく栄える鮮やかな黄色い風船。
「黄色だね。はいよ、お嬢ちゃん」
「どうもありがとう」
リトは風船を受け取ると、嬉々としてアルに見せた。
「おっちゃん、いくら?」
「へい、まいど!800センズだよ」
「おいおい、たかがゴムの中に窒素入れただけなのに高すぎだろ」
何とも夢のない会話。これだからエドはデリカシーがないと言われるのだ。
「何言ってんでぇ、あのお嬢ちゃんのあんな嬉しそうな顔が見れんなら安いもんだろ?」
そう言ってニッと笑う風船売りの親父。確かにそうかもな、とエドは先ほどのリトの笑顔を思い出し、8枚の硬貨を支払った。
「まいどありっ!」
気さくな親父に背を向けエドが二人の元へ戻ると、リトはまだ楽しそうに風船を観察していた。
「うりゃっ!」
よほど嬉しかったのか、紐を引っ張ってみたりジャンプして掴もうとしてみたり。そうかと思えば、いきなり走り出したり。
「「(……猫みたい)」」
今にも耳と尻尾が生えてきそうなリトをエドとアルが笑いを堪えながら見ていると…
「うわぁあああぁん!」
突然、自分たちの後ろから耳をつんざくような泣き声が聞こえた。それはリトの耳にも届いていたようで、風船の観察を一旦中止してエドとアルの所へ戻ってきた。
「どうしたんだろ?」
泣き声の主は3、4歳の男の子だ。そばで宥める母親の声すら無視して、しきりに空を指差し泣いている。
「「「………?」」」
三人も揃って上を向くと…
「……あ。」
リトの目に、ゆっくりと天に昇っていく青い風船が映った。
「うわああぁあぁんッ!」
泣きじゃくる男の子は母親が宥めても、泣き止む気配を一向に見せない。
それを見ていたリトは自分の持つ黄色い風船とアル、そしてエドの顔を見上げてから、トコトコと男の子の前まで行き、風船の紐を掴む右手を差し出した。
「お姉ちゃんのあげる。だからお母さんのこと困らせちゃダメだよ?」
「…ふぇっ……くれるの?」
「うん、……今度は離しちゃだめだよ」
そう言ってリトは風船の紐で輪を作り、男の子の右手を通した。
「!…ありがと、おねーちゃん!」
「どういたしまして」
リトから風船を貰った男の子はピタリと泣き止み、母親はリトとその後ろにいたエルリック兄弟にぺこりと頭を下げると、手をつないで帰って行った。
日は西に傾く夕刻、小さくなっていく親子を見つめるリト。男の子の後ろ姿に、日本にいた頃の自分を重ね、胸が苦しくなる。
うらやましい、リトはそう思いながらもギュッと口を一の字に閉ざすと、エドの方を向いた。
「ごめんね、エド。せっかく買ってくれたのに……」
「オレはかまわねぇけど……いいのか?気に入ってたんだろ?」
「……いいの」
リトは首を横に振り、右手でエドの左手を掴んだ。
「だってエドがいてくれるもん!」
「………っ」
リトが直感で黄色の風船を選んだのは、青空に浮かぶ風船が、同じように青空を背に自分を見下ろすエドと重なったから。
「それにね……ほら!」
リトは今度は背伸びをして、左手でアルの手を掴んだ。
「わたしの手は2本しかないから、こうしたら風船なんて掴めないでしょ?」
風船を買ってもらったときよりも嬉しそうな顔でリトは笑う。
「へへ……そうだな」
「何だか嬉しいね」
鎧のアルに表情はないけれど、きっと優しく微笑んでいるのだろう。エドの頬が僅かに赤いのは、決して夕日のせいだけではないはずだ。
「ほら!早く行こう?」
茜色に染まった噴水の水が、手を繋いだ三人のシルエットを見送った。