薄暗い森の中、舗装されていないお世辞にも山道とは呼べない獣道を、一人の男が息を切らしながら走っていた。
……いや、逃げていた。
「っ…はぁ、はぁ……っつ…」
薄汚れたローブをかぶり、時折後ろを気にしながら男はある場所を目指す。早くたどり着かねば、ヤツらが来る前に、と譫言のように繰り返す。
幾時間、そうして走っていたのだろうか。ようやく森を抜けるとそこには広々とした庭があり、その中心に大きな屋敷が立っていた。
男は躊躇うことなく屋敷の扉を開け、中に入り錬成陣を描くと、錬金術で扉を開かないようにしてしまった。
「はぁっ……はぁ……これで暫くは大丈夫だろう」
「何が大丈夫なの?」
「っ!?」
自分しかいないはずの屋敷の中で聞こえた声。男は驚き、今し方施錠した扉を背に振り向いた。
そこに佇むは一人の青年。妖しげな表情を浮かべながらニヤニヤと男を見下ろしている。
「アンタもバカだねー。こんなことで僕から逃げられたとでも思ったの?」
笑っちゃうよね。そう言って、青年はさも愉快そうに笑った。
「くっ……言ったはずだ!私は協力などしないと!」
男は青年を睨みつけて叫んだ。だが青年は怯える様子もなく、口元に弧を描いたまま飄々としている。
「別にこれは『お願い』してるわけじゃないんだよねー。『命令』してるんだけど?」
相変わらずの態度だが、さっきまでと違って目が笑っていない。
紫石のような瞳から放たれる異様なプレッシャーに男は身の毛がよだつ。逃げようにも後ろの扉は開かない。
「いいかげんにしないとさぁ……本当に殺すよ?」
今度ははっきりと、怒気を含んだ声で言う。
「っ……わかった。お前達の言う通りにする」
男は力なくズルズルと扉にもたれ、座り込んだ。
「そうそう、最初から素直に言うこと聞いてりゃいいんだよ」
男の態度に満足したのか、先程とは打って変わってニコニコとしている青年。
二人は一旦、研究室へと場所を移した。
たくさんの書物と実験器具の並ぶその部屋の中央に男はしゃがみ、床に何やら複雑な模様を描き始める。
大きな大きな錬成陣。おそらく一般の術師が見ても首を捻るだろう。それ程までに高度なものだった。
「ふ〜ん。さすが『時の賢者』タイアース・アールシャナ………何描いてんのか全然わかんないや」
足を組みながらイスに座り、机に肘をついて青年は退屈そうに言う。
「でもさぁ、さっさとしてよね。僕、初めての仕事だから疲れちゃった」
そう…この青年は『お父様』に最近作られた────ホムンクルス。名前はエンヴィー。背負う業の名は“嫉妬”
「まったく。何で最初の仕事が、こんなおっさんの相手なのかなぁ…」
よほど退屈なのか、一人でぶつぶつと文句を言っている。
すると、今まで黙々と錬成陣を描いていた男、タイアースがふと手を止めてエンヴィーに問いかけた。
「……お前は、これが何なのか…発動させればどうなるのかわかっているのか?」
その目には確かな怒りが込められている。
「知ってるよ?門の向こう………あの世界のやつらを使って、賢者の石を作るんだろう?」
いったいどれほどの人間が犠牲になると思っている!!」
タイアースはものすごい剣幕で怒鳴るが、エンヴィーは「あ〜やだやだ」と両手を上げ、意味がわからないとでも言うように呆れ返った。
「別にさぁ、アンタには関係ない世界のやつらじゃん。それに、どっちにしろ時空は歪み始めてる……。遅かれ早かれ向こうの世界はめちゃくちゃになるんだから」
エンヴィーはケラケラと笑いながら言った。
「……そんなこと、させるものか…」
噛みしめるように呟き、タイアースは新たに錬成陣を描き始めた。決してエンヴィーには気づかれないように。
「させるものかって……どうやって?門の向こうだよ?」
エンヴィー特有の余裕たっぷりの笑みでタイアースを嘲笑う。しかし、次にタイアースが言った言葉に、しだいにその笑みは消えていった。
「……なぜ私が『時の賢者』と呼ばれるか、わかるか?」
錬成陣を描く手を休めず、タイアースは言う。
「門を開き、違う時間そして違う空間の人間を錬成することもできれば、私は……自身を門の向こうにとばすこともできる!」
そう言うやいなや、タイアースは勢いよく床に手をついて二つ目に描いた錬成陣を発動させた。
──バシッ! ゴォオゥ…!
「うわぁっあっ!」
それは光と突風を生み出し、エンヴィーは砕けた窓ガラスと共に窓の外へと勢いよく放り出された。
「お前たちの好きにはさせないさ……」
タイアースは初めに描いた錬成陣の中央に行き、神に祈るように両手を胸の前で合わせた。
「だから言っただろう?これが何なのか……発動させればどうなるのか、わかっているのか?とな」
そう言って彼はまるで神に懺悔するかのように跪き、許しを請うように地に手をついた。
その瞬間、タイアースの姿は眩い光に包まれ、光がおさまったころにはタイアースはおろか、屋敷ごと跡形もなく消えていた。
屋敷の外に投げ出されたエンヴィーは呆然と屋敷があった場所を見つめていたが、ハッと気づき
「やばっ……お父様に怒られる……」
初仕事が見事な失敗に終わり、どう言い訳しようか思案していた。
2008.10.06
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