*Sample
明ける夜に謳う


 Valkyrie、と聞けば誰もが夢ノ咲学院の頂点を想像する時代は既に終わっていた。そのユニットが今も尚生きていて、薄暗い場所で泥水を啜りながらそれでも生き延び、星が降る夜に凶器とも呼べるその芸術を手に反旗を翻すその時が来なければ、彼らはそのまま忘れ去られ、学院からその名すら消えていたことだろう。
 圧倒的な力を叩きつけたあの夜から、Valkyrieは再びその名を俗世に響かせることとなった。美しい人形を中心に据えた三人のユニットとしてではなく、人知を越えた芸術に恐怖すら感じてしまいそうになる、二人組として。


「影片」
 呼ばれた己の名に顔を上げると、ドアの前で立ち止まりこちらを見ていた斎宮と目が合う。彼がいるドアの先には斎宮の部屋がある。ということは、影片が呼ばれた理由はひとつだ。
「メンテナンス、してくれるん?」
「ここ数日ライブが続いているからね。不調が出てからでは困るだろう」
 自分を労ってくれるその言葉に心臓が景気よく跳ねる。失敗作だと、出来損ないだと罵る割には、彼は面倒見がよく優しい心の持ち主なのだ。だから、ほんの少しでも影片に不調があれば見逃さないし、何も無かったとしても定期的にメンテナンスをしてくれる。
「ほっか、おおきに」
 抱えていたぬいぐるみをソファに戻し、暇つぶしに見ていただけのテレビを切る。ついでにリビングの電気も消してから、先に部屋に入っていた斎宮に続いて部屋に入った。
 同じ大きさの部屋を使っているはずなのに、斎宮の部屋は影片の部屋とは違いほんの少しだけ質素に見える。見えるだけで、細部まで作り込まれた家具も、棚に納められている様々なアンティークドールも、ご丁寧に作られたマドモワゼルの居場所も、よくよく目を凝らせばその素晴らしさに思わずため息を付きたくなるほど手が込んでいる部屋なのだが。
「そこに座るのだよ」
「おん。ほなおじゃまします〜」
 指し示されたベッドに腰を下ろし、少しだけ浮いた足を意味もなく揺らす。斎宮は何か準備があるのか、机の上を弄っていた。
 とても柔らかい生地のベッドは下手をすれば触れるだけで眠気を誘ってくる。が、メンテナンスが始まるというのに居眠りなどしていられない。
「さて」
 斎宮の目が影片を捉え、大きくてそれでいて白く美しい両手が影片の頬に伸びる。するすると撫でるその手が心地よくて思わず目を閉じると、両手は頬を包んだまま薬指だけで顎を引かれた。喋りこそしないものの、今の行動に問題があり、彼が腹を立てたというサインだ。
 慌ててぱちりと目を見開く。顎を引かれたことで上がっていた視界に斎宮の顔が映り、まっすぐに向けられた両目に更に自分の姿が映り込んでいる。なんだか気恥ずかしくなって目を逸らすと、また顎を引かれてしまった。今度はため息も付いてくる。
「ご、ごめんなあお師さん」
「良いから、黙っていたまえ」
 そのまま吸い込まれてしまいそうになる斎宮の視線から逃れることも出来ずに、跳ねる心臓がどうかばれないようにと祈りながら、彼が黙々と触れ、なぞる感覚だけを追った。
 不意に斎宮の手が耳に触れ、形を確認するように指で擦り始めた。かと思えば、耳たぶを摘んで何かを確認するように視線を耳に動かす。
 そこに何の用があるのかはだいたい見当が付く。恐らくピアスホールの確認だ。普段からピアスをつけているわけではなく、ライブ時にのみピアスを付ける影片は、不器用なせいかほぼ毎回うまく通せずに斎宮に頼むか、見当違いの場所に無理矢理通そうとして斎宮に叱られるかのどちらかを繰り返している。
 しかし今は数日連続でピアスを使っているので、塞がっているというわけでもない。なら一体、何の用だというのだろうか。
 触れていた手が一度離れ、斎宮は机の上から何か小さな箱を取って再びこちらへ戻ってきた。そのままもう一度耳に触れ、耳たぶを引っ張るように持つ。
 細いものが押し込まれる感触と、ほぼ同時にぷつりと薄い皮膚を破るような感触が訪れる。感覚でしか分からないが、恐らくピアスを埋め込まれた。
 斎宮は手を離して吟味するように片手を顎に当てて唸っていたが、少ししてから素早く埋め込んだそれを抜き、箱に戻してからまた何か、恐らく先ほど埋め込んだものとは別のピアスを手に取り、もう一度耳に触れた。
「(……ん?)」
 何も考えずに施しを受けていたが、今の状況に理解が追いつかずに頭の中をクエスチョンマークが支配する。常識的に考えればピアスの試着をしているのだろう。しかし、今までそんなことをメンテナンス中にしたことはない。
「……お師さん?」
「無駄口を叩くんじゃないよ影片」
「んあっ、ごめんなさい」
 再び耳にピアスを埋め込まれ、同じように吟味する斎宮を見ながら思考を巡らすが、最初に分からなかったものが分かるようになるわけもなく。
「……ふむ。これなら……」
 ようやく何かがお眼鏡に叶えたのか、耳に埋め込まれた異物を外して箱に入れ、それを机の上に戻した。
 髪を梳かれ、腕を揉まれ、足の先に至るまで、くまなく確認され、少し伸びていた指の爪を切ってもらってその日のメンテナンスは終わった。
「影片?」
「……んあ、」
 つい閉じていた目を開けると、何か言いたげな斎宮の姿が映る。しかし自覚した思いを止めることは出来なかった。
「……んん、おしさ……おれ、」
 とてつもなく、眠い。
「全く……今日だけだからね」
 肩を押され、ベッドに倒される。そこまでされてしまえば、もう睡魔に勝つことは不可能だった。するすると落ちていく意識の中で、髪を梳かれる心地よい感覚が最後まで残る。それにお礼を言えたかどうか分からないうちに、影片の意識は完全に途切れた。



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